ガウリシャンカール(ネパール語: गौरीशंकर)は、ネパール・ドラカ郡にあるヒマラヤ山脈・ロルワリン・ヒマール(英語版)の山である。標高7,134メートルで、ロルワリン・ヒマールの中ではメルンツェ(英語版)(7,181メートル)に次ぐ第2の高峰である。ネパール標準時(UTC+5:45)は、この山を通る子午線を基準としている[3]。
位置
ガウリシャンカールは、カトマンズの北東約100キロメートルに位置するロルワリン・ヒマールの西端近くにある。カトマンズとエベレストのほぼ中間に位置し、カトマンズからも見える。山頂の西には、ロルワリン・ヒマールの西の境界であるボテ・コシの谷がある。ロルワリン・ヒマール最高峰のメルンツェは北にある。南側からタマコシ川(英語版)の支流のロルワリン・チュー(ドイツ語版)が流れており、テシ・ラプチャ峠を越えてクンブ地方(英語版)に行くことができる[4]。
名称
名前の由来は、ヒンドゥー教の女神であるパールヴァティーの別名のガウリーと、その夫のシヴァの別名のシャンカールであり、ネパールの人々がこの山を神聖視していることを表している。シェルパ族はこの山をチョモ・ツェリンマ(Jomo Tseringma)と呼んでいる[5]。
「ガウリシャンカール」という名前は、19世紀中頃のドイツを中心とするヨーロッパにおいて、世界最高峰のエベレストを指す言葉として使われていた。これは、ドイツのヒマラヤ探検家ヘルマン・シュラーギントヴァイト(英語版)(アドルフ・シュラーギントヴァイトの弟)が、世界最高峰であることが判明したばかりのピーク15(現在のエベレスト)と当山を混同し、この山の名前が「ガウリシャンカール」であると地元住民に教えてもらったことから、「世界最高峰ガウリシャンカール」と勘違いして発表したためである[6]。
山頂
この山には2つの山頂があり、北側の高い方の山頂はシャンカール(シヴァの別名)、南側の山頂はガウリー(パールヴァティーの別名)と呼ばれている。ボテ・コシの谷から5キロメートル程度しか離れておらず[7][8]、四方を急峻な斜面と長い角状の尾根に囲まれている[4][7]。
登頂史
1950年代から1960年代にかけてガウリシャンカールへの登頂が試みられたが、天候や雪崩、登攀困難な氷壁などのため、全ての登山隊が登頂に失敗した[9] 。1965年から1979年までは、公式に登頂が禁止されていた。
1979年に登頂が許可され、5月8日にアメリカとネパールの登山隊が西壁を経由して初登頂に成功した[5]。このルートは、技術的に非常に難しいものだった。ネパール観光省の登頂許可証では、両国から同数の登山者が登頂チームに参加しなければならないと規定されており、初登頂にはアメリカ人のジョン・ロスケリー(英語版)とネパール人シェルパのドルジェが参加した[4]。
同年、ピーター・ボードマン(英語版)率いるイギリスとネパールの登山隊が、長く困難な南西尾根からの登頂に挑戦した。11月8日、ボードマン、ティム・リーチ、ガイ・ニードハルト、ペンバ・ラマの4人は、南のガウリ(7,010メートル)に到達した[10]。イギリス隊はシャンカールへは行かなかった。
1983年にスロベニアの登山隊が登頂した[11][12]。11月1日にSlavko Cankar(隊長)、Bojan Šrot、Smiljan Smodišが、その3日後にFranco PepevnikとJože Zupanが到達した。スロバキア隊は南壁の左側を登り、南西稜に到達した後、ガウリー山頂へ進んだ。スロベニア隊もまた、シャンカールへは行かなかった[13]。
ヒマラヤン・インデックスによれば、主峰シャンカールへの登頂は、1979年の初登頂の後2回行われている[14]。2回目の登頂は1984年春、ワイマン・カルブレスとアン・カミ・シェルパが南西面の尾根に設けられた新ルートを使って行った。3回目の登頂は、1986年1月、韓国のチェ・ハンジョとシェルパのアン・カミによって行われ、初の冬期登頂となった[15]。
2013年秋、4人のフランス人登山家によって、南壁の完全な登頂が実現した。10月21日午後4時に南壁の頂上に到達したが、その先のガウリー山頂(7,010メートル)への登頂は断念した。南壁の下まで降りるのに11時間を要した[11]。
文学での言及
ロシアの作家アンドレイ・ベールイの小説『ペテルブルグ(英語版)』の中で、一日に起きたたくさんの出来事の喩えとしてガウリシャンカールに言及されている[16]。
ギャラリー
脚注
注釈
- ^ a b
この山の標高とプロミネンスについては、情報源によって大きく異なる。例えばPeakbaggerでは標高7134メートル、プロミネンス1709メートルとなっている。
出典
- ^ a b c
“High Asia II: Himalaya of Nepal, Bhutan, Sikkim and adjoining region of Tibet”. Peaklist.org. 30 May 2014閲覧。
- ^
"Gaurishankar, China/Nepal". Peakbagger.com. 2014年5月30日閲覧。
- ^ Gurung, Trishna. “15 minutes of fame”. Nepali Times. 25 July 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。3 September 2012閲覧。
- ^ a b c
Fanshawe, Andy; Venables, Stephen (1995). Himalaya Alpine-Style. Hodder and Stoughton
- ^ a b
Read, Al (1980). “The Nepalese-American Gaurishankar Expedition”. American Alpine Journal (American Alpine Club) 22 (2): 417. http://publications.americanalpineclub.org/articles/12198041700/The-Nepalese-American-Gaurishankar-Expedition 3 January 2015閲覧。.
- ^ Günter O. Dyhrenfurth: Zum dritten Pol: Die Achttausender der Erde. München, 1952, S. 28f (Zum dritten Pol - Google ブックス).
- ^ a b
Ohmori, Koichiro (1994). Over The Himalaya. Cloudcap Press (The Mountaineers). ISBN 978-0938567370
- ^ DEM files for the Himalaya (Corrected versions of SRTM data)
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Neate, Jill (1989). High Asia: An Illustrated History of the 7000 Metre Peaks. The Mountaineers. ISBN 978-0898862386
- ^ Boardman, Peter (1983). Sacred Summits. London: Arrow Books, LTD. ISBN 978-0099310402
- ^ a b
Griffen, Lindsay (November 5, 2013). “South face of Gaurishankar finally climbed”. British Mountaineering Council. 3 January 2015閲覧。
- ^ “An interview with Aco Pepevnik” (16 June 1997). 3 January 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。3 January 2015閲覧。
- ^
Griffin, Lindsay (2014). “Gaurishankar (to Point 6,850m), south face, Peine Prolongée”. American Alpine Journal (American Alpine Club). http://publications.americanalpineclub.org/articles/13201212619/Gaurishankar-to-Point-6850m-south-face-Peine-Prolonge 2021年11月7日閲覧。.
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“Himalayan Index”. Alpine Club. 3 January 2015閲覧。
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“AAJ online”. American Alpine Journal: 237. (1986). オリジナルの20 January 2015時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150120010458/http://www.americanalpineclub.org/p/aaj 3 January 2015閲覧。.
- ^ “Petersburg”. booksvooks.com. 2021年11月7日閲覧。