カール・ゲオルク・アウグスト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(Karl Georg August von Brunswick-Wolfenbüttel, 1766年2月18日 - 1806年9月20日)は、ドイツ・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯爵家の侯世子。
生涯
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯カール・ヴィルヘルム・フェルディナントと、その妻のイギリス王女オーガスタの間の長男として生まれた。1789年、父侯爵はオランダ総督・オラニエ公ウィレム5世の娘ルイーゼを長男の嫁に迎える縁談をととのえた。これは1787年、父侯爵が主君のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命でオランダ愛国派の反乱を鎮圧し、王妹ヴィルヘルミーネとその夫オラニエ公を救ったことに対する、オラニエ=ナッサウ家側の感謝と友誼の念から成立した縁組だった。2人の結婚式は1790年10月14日にデン・ハーグで挙行され、夫婦はブラウンシュヴァイクに居を構えた。
カールには知的障害と視覚障害があり、ルイーゼは彼にとって妻というよりは看護婦のような存在で、カールは彼女に介助されて生活していた[1]。夫婦の間に子供はなく、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領の継承権は四弟フリードリヒ・ヴィルヘルムに移った[1]。
1799年、ブラウンシュヴァイク宮廷(英語版)を訪問したスウェーデンのセーデルマンランド公爵夫人ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ王女は、カールとその弟たちについて次のように描写している。
侯爵夫妻の子息たちはいくぶん風変りだった。侯世子は丸々と太っていて、ほとんど目が見えておらず、もし知的障害という言葉を使うのに憚りがあれば、変人であった。彼は父君と仲良くなろうと努力していたが、不自然な振る舞いをしていつも父君を不愉快にさせていた。侯世子は常にしゃべり続けており、誰も彼の言っている言葉が理解できず、そのおしゃべりはまったく耐え難いものだった。扱いやすくはあるが愚かな人物で、妃を崇拝していると言えるほどに愛しており、完全に妻の言いなりになっていた。次男のゲオルク侯子はおよそ想像しうる限り最も奇妙な人物で、あまりに痴愚なため一人にしておくことが出来ず、いつも
廷臣に付き添われていた。三男の侯子も兄たち同様の奇人である。
四男の侯子だけが普通なのだが、不道徳な素行のために両親の悩みの種になっている
[2]。
脚注
注釈
出典
外部リンク
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