ジョージ・B・ブラック(George B. Black )による肖像画、1860年。
第9代ディグビー男爵 エドワード・セント・ヴィンセント・ディグビー (英語 : Edward St. Vincent Digby, 9th Baron Digby 、1809年 6月21日 – 1889年 10月16日 )は、イギリス の貴族。
生涯
『バニティ・フェア 』1883年9月15日号におけるカリカチュア 、レスリー・ウォード 画。
サー・ヘンリー・ディグビー (英語版 ) (1842年8月19日没、ウィリアム・ディグビー の息子)と妻ジェーン・エリザベス(Jane Elizabeth 、旧姓クック(Coke )、初代レスター伯爵トマス・ウィリアム・クック の娘)の息子として、1809年6月21日にドーセット のフォーストン・ハウス(Forston House )で生まれた[ 1] 。ハーロー校 で教育を受けた[ 1] 。
1826年4月13日、エンサイン (英語版 ) (歩兵少尉)への辞令を購入して、第65歩兵連隊 (英語版 ) に配属された[ 2] 。1827年4月ごろに中尉に昇進した[ 3] 。その後は半給 になり、1828年8月4日に軽竜騎兵第9連隊 (英語版 ) に転じた[ 4] 。
1848年11月14日、ドーセット・ヨーマンリー連隊 (英語版 ) の大尉に任命された[ 5] 。1856年7月26日、少佐に昇進した[ 6] 。1866年7月19日に指揮権を与えられ[ 7] 、1870年9月に辞任した[ 8] 。1871年5月23日、引退後も少佐の軍階を保持することを許可された[ 9] 。
1856年5月12日に遠戚の第2代ディグビー伯爵エドワード・ディグビー が死去すると、ディグビー男爵 位を継承した[ 1] 。貴族院 では保守党 に属し、1871年にウィリアム・グラッドストン が提出したアイルランド土地法案 (英語版 ) に反対票を投じた[ 1] 。1876年時点でアイルランドのキングス・カウンティ(現オファリー県 )に29,722エーカー の、クイーンズ・カウンティ(現リーシュ県 )に938エーカーの領地を所有し、合計で年収13,287ポンド相当だった[ 10] 。1883年までにメイヨー県 の6,835エーカー(年収162ポンド)もアイルランドでの領地に加えられた[ 1] 。イングランドでは1883年時点でドーセット 州に1,886エーカー、ウォリックシャー に124エーカーの領地を所有し、全領地の合算で年収15,968ポンド相当だった[ 1] 。
1889年10月16日にドーセットのミンターン・ハウス (英語版 ) で死去、ミンターンで埋葬された[ 1] 。息子エドワード・ヘンリー・トラファルガー (英語版 ) が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1837年6月27日、テリーザ・アンナ・マリア・フォックス=ストラングウェイズ(Theresa Anna Maria Fox-Strangways 、1814年1月11日 – 1874年5月2日、第3代イルチェスター伯爵ヘンリー・フォックス=ストラングウェイズ の娘)と結婚[ 1] 、4男3女をもうけた[ 11] 。
ヴィクトリア・アレクサンドリナ(Victoria Alexandrina 、1917年5月21日没) - 1865年6月6日、リチャード・マーカー(Richard Marker )と結婚、子供あり[ 11]
レオノーラ・キャロライン(Leonora Caroline 、1930年8月19日没) - 1864年1月5日、第4代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリング (英語版 ) (1889年7月18日没)と結婚、子供あり[ 11]
エドワード・ヘンリー・トラファルガー (英語版 ) (1846年10月21日 – 1920年5月11日) - 第10代ディグビー男爵[ 11]
メアリー・テリーザ(1896年10月12日没) - 生涯未婚[ 11]
アルマラス・ケネルム(Almarus Kenelm 、1850年9月5日 – 1886年12月13日[ 11] )
エヴェラード・チャールズ(Everard Charles 、1852年9月6日 – 1915年1月16日) - 1886年6月2日、エミリー・ルイーザ・アン・ペティ=フィッツモーリス(Emily Louisa Anne Petty-Fitzmaurice 、1939年12月2日没、第4代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス の娘)と結婚、子供あり[ 11]
ジェラルド・フィッツモーリス(Gerald Fitzmaurice 、1858年12月20日 – 1942年12月8日) - 1906年7月26日、リリアン・メアリー・ハリエット・ダイアナ・リデル(Lilian Mary Harriet Diana Liddell 、1962年3月18日没、第2代レイヴェンスワース伯爵ヘンリー・リデル (英語版 ) の末娘)と結婚、子供あり[ 11]
出典
^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 356.
^ "No. 18240" . The London Gazette (英語). 22 April 1826. p. 935.
^ "No. 18361" . The London Gazette (英語). 15 May 1827. p. 1058.
^ "No. 3672" . The Edinburgh Gazette (英語). 12 August 1828. p. 209.
^ "No. 20916" . The London Gazette (英語). 17 November 1848. p. 4125.
^ "No. 21910" . The London Gazette (英語). 5 August 1856. p. 2712.
^ "No. 23145" . The London Gazette (英語). 27 July 1866. p. 4239.
^ "No. 23661" . The London Gazette (英語). 23 September 1870. p. 4246.
^ "No. 23742" . The London Gazette (英語). 30 May 1871. p. 2569.
^ De Burgh, U. H. Hussey (1878). The Landowners of Ireland (英語). Dublin: Hodges, Foster, and Figgis. p. 128.
^ a b c d e f g h Townend, Peter, ed. (1963). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (103rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 734.
外部リンク