エタ・ベイカー(Etta Baker、1913年3月31日 – 2006年9月23日)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州出身のピードモント・ブルース(英語版)のギタリスト、歌手。
経歴
エタ・ルシール・リード (Etta Lucille Reid) としてノースカロライナ州コールドウェル郡に生まれた彼女は、アフリカ系アメリカ人、インディアン、ヨーロッパ系アメリカ人の血統を引いていた[1]。彼女は3歳からギターを弾き始めた。教えたのは、父ブーン・リード (Boone Reid) だったが、彼は様々な楽器でピードモント・ブルースを永く演奏してきた人物だった[2]。彼女に音楽を教えたのは父だけであった[3]。彼女は6弦だけでなく12弦のスティール弦アコースティックギターや5弦バンジョーを演奏した。ベイカーは、ピードモント・ブルースを90年近くにわたって演奏し続けた。
1916年、彼女は家族とともにバージニア州キーズビル(英語版)に移り住んだ[4]。リード家には、4女4男、8人の子どもたちがいた。そのうち一人を除き、(7人が)成人となるまで生き延びた。父ブーン・リードは、1910年代から1920年代にかけて様々な仕事を転々とし、他州の工場や造船所で働いていた。残りの家族は、おじのもとで暮らしていた。エタ・リードが14歳になる頃には、家族全員が一緒になって、バージニア州南部のタバコ農園で働いていた。彼女は第10学年までで学校をやめてしまった[5]。
ベイカーが最初の録音を行なったのは、1956年の夏に、彼女が父とともに、当時住んでいたモーガントンに近いノースカロライナ州ブローイング・ロック(英語版)のコーン家の屋敷(英語版)を訪れていたとき、偶然ポール・クレイトン(英語版)に出会った後であった。父はクレイトンに、娘の代表曲「One Dime Blues」を聴いてくれと頼んだ。クレイトンはこれに感銘を受け、翌日、テープレコーダーを持参して一家の自宅を訪れ、数曲を録音した[6]。
ベイカーは、ボブ・ディラン、タジ・マハール、ケニー・ウェイン・シェパード(英語版)など数多くの音楽アーティストたちと交流して自分の知識を彼らと共有した[7]。1989年にはノースカロライナ・アーツ・カウンシル(英語版)からノースカロライナ・ヘリテッジ賞(英語版)を贈られ、1991年には国立芸術基金から(日本の人間国宝に相当する)National Heritage Fellowshipに選ばれ、2003年にはノースカロライナ賞(英語版)を贈られた。また、1982年には姉コーラ・フィリップス (Cora Phillips) とともに、ノースカロライナ・フォークロア協会 (North Carolina Folklore Society) から、ブラウン=ハドソン・フォークロア賞 (Brown-Hudson Folklore Award) を贈られた[8]。
ベイカーは9人の子どもをもうけ、うちひとりは1967年にベトナム戦争で死んだが、同年には彼女の夫も死去した。息子と夫をなくした彼女は、しばらく演奏活動をやめていたが、やがてブルースに慰めを見出した[9]。晩年の彼女は、ノースカロライナ州モーガントンに住んでいたが、心臓発作で倒れた娘を見舞いに訪れていたバージニア州フェアファックスにおいて93歳で死去した。
死亡記事
ディスコグラフィ
音源
脚注
外部リンク