第2代ダートマス伯爵 ウィリアム・レッグ (William Legge, 2nd Earl of Dartmouth PC FRS FSA 、1731年 6月20日 – 1801年 7月15日 )は、アメリカ合衆国の独立 前後の時期に、閣僚級の要職を歴任したグレートブリテン王国 の政治家 。
出自
ルイシャム子爵ジョージ・レッグ (1732年8月29日没)と妻エリザベス(1707年ごろ – 1745年4月21日、第3代準男爵サー・アーサー・ケイ (英語版 ) の娘)の息子として、1731年6月20日に生まれ、セント・メリルボーン教区教会 (英語版 ) で洗礼を受けた[ 2] 。1歳のときに父を失った[ 2] 。ウェストミンスター・スクール に学び[ 1] 、1749年1月14日にオックスフォード大学 トリニティ・カレッジ に入学、1751年3月21日にM.A. 、1756年4月28日にD.C.L. (英語版 ) の学位を修得した[ 3] [ 4] 。1750年12月15日に父が死去すると、ダートマス伯爵 位を継承した[ 2] 。
政治経験
伯爵となったダートマス卿は、1754年 に貴族院 議員となった[ 1] 。1764年 には、トーマス・ホーウェイス (Thomas Haweis ) の提案を受けて、元奴隷 商人のジョン・ニュートン をチェスター主教 (英語版 ) へ推薦し、ニュートンが聖公会 の聖職者 として受け入れられる途を開いた。
1765年7月26日に枢密顧問官 に任命され、同年から1766年まで第一商務卿 を務めた[ 2] 。ノース内閣 期には1772年から1775年まで植民地大臣 と第一商務卿を務め、1775年11月から1782年3月まで王璽尚書 を務めた[ 2] 。フォックス=ノース連立内閣 では1783年4月から12月まで王室家政長官 (英語版 ) を務めた[ 2] 。
1772年 、イギリス領アメリカ北部インディアン関連局長官 (the Superintendent of Northern Indian Affairs in America ) であった初代準男爵サー・ウィリアム・ジョンソン への書簡の中で、ダートマス卿はインディアンとの交易について新たな規則の導入は本国政府として得策ではないことを示唆した。ダートマス卿はジョンソンの主張に理解を示しながらも、どのような提案であれ、新しい規則は植民地側の同意を得られないだろうと述べた。
慈善活動
ダートマス卿は、インディアン に教育 を与え、キリスト教 に改宗 させることを目的としてエリエザー・ウィーロック (Eleazar Wheelock ) がコネチカット州 レバノン (Lebanon ) に設立しようとしていたインディアン慈善学校 (the Indian Charity School) に資金を提供するイングランドの信託財団に多額の寄付をするとともに、その理事として中心的な役割を果たした。後にウィーロックは、ニューハンプシャー州 ハノーバー にダートマス大学 を創設したが、これは、ダートマス卿を讃える形で命名することが、一層の経済的支援につながると期待してのことであった。しかし、ダートマス卿は大学への資金提供は拒んだ。ダートマス卿はロンドン で、孤児などの養育にあたる新たな慈善団体である捨子養育院 (Foundling Hospital ) を支援した。ダートマス卿は1755年 から、死去するまで、この団体の副会長の地位にあった。有名な画家であるサー ・ジョシュア・レノルズ は、ダートマス卿の肖像画を作成し、ホスピタルに寄贈した。この肖像画は現在もファウンドリング・ホスピタルが所蔵し、ロンドンの捨て子博物館 (Foundling Museum ) に展示されている。
1754年11月7日に王立協会フェロー に選出され[ 5] 、同日にロンドン考古協会 フェローにも選出された[ 2] 。
1801年7月15日にブラックヒース (英語版 ) で死去、8月3日にミノリーズ (英語版 ) のホーリー・トリニティ教会 (英語版 ) に埋葬された[ 2] 。長男ジョージ が爵位を継承した[ 2] 。
家族
1755年1月11日、フランシス・キャサリン・ガンター・ニコル(Frances Catherine Gunter Nicoll 、1733年ごろ – 1805年2月23日、サー ・チャールズ・ガンター・ニコルの娘)と結婚[ 2] 、8男1女をもうけた[ 6] 。
ジョージ (1755年10月3日 – 1810年11月10日) - 第3代ダートマス伯爵[ 2]
ウィリアム(1757年2月4日 – 1784年10月19日[ 6] )
チャールズ・ガウンター(Charles Gounter 、1759年5月18日 – 1785年10月11日[ 6] )
ヘニッジ(Heneage 、1761年5月7日 – 1782年9月2日[ 6] )
ヘンリー(1765年1月23日 – 1844年4月19日) - 法廷弁護士[ 6]
アーサー・ケイ (英語版 ) (1766年10月25日 – 1835年5月12日) - 海軍軍人[ 6]
エドワード (英語版 ) (1767年12月11日 – 1827年1月27日) - オックスフォード主教 (英語版 ) [ 6]
オーガスタス・ジョージ (英語版 ) (1773年4月21日 – 1828年8月21日) - 聖職者。1795年12月15日、オノラ・バゴット(Honora Bagot 、1863年10月2日没、ウォルター・バゴットの娘)と結婚、子供あり[ 6] [ 7]
シャーロット(1774年10月5日[ 6] – 1848年11月5日) - 1795年9月24日、初代フェヴァーシャム男爵チャールズ・ダンコム (英語版 ) (1841年7月16日没)と結婚、子供あり[ 7]
サンドウェル・バレー (Sandwell Valley ) にあった一家の屋敷サンドウェル・ホール (Sandwell Hall) はフランシスの死後に解体された。
伝記
R.H. Nichols and F A. Wray, The History of the Foundling Hospital (London: Oxford University Press, 1935).
「ブラック・カントリー・メソジズム (Black Country Methodism)」と称されたメソジスト 運動におけるダートマス卿の位置づけについては、米国のメソジスト監督教会 の監督 であったフランシス・アズベリ (Francis Asbury ) の母エリザ・アズベリ (Eliza Asbury) に関するデイヴィッド・ハラム (David Hallam ) の著書『Eliza Asbury 』に言及がある。
出典
^ a b c "William Legge, 2nd earl of Dartmouth" . Encyclopaedia Britannica (英語). 2013年11月4日閲覧 。
^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 89–90.
^ Foster, Joseph (1888–1892). "Legge, William, Viscount Lewisham (1)" . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 3. Oxford: Parker and Co. p. 835. ウィキソース より。
^ Hopkins, Clare (2005), Trinity: 450 years of an Oxford college community (2007 reprint ed.), Oxford, ISBN 978-0-19-951896-8
^ "Legge; William (1731 - 1801); 2nd Earl of Dartmouth" . Record (英語). The Royal Society . 2024年8月6日閲覧 。
^ a b c d e f g h i Lodge, Edmund , ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. p. 154.
^ a b Burke, Sir Bernard ; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 1 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 712.
関連文献
外部リンク