バロウズとデビッド・ウッダード 、1997年頃[ 1] :142–146
ウィリアム・シュワード・バロウズ二世 (William Seward Burroughs II 、1914年 2月5日 - 1997年 8月2日 )は、アメリカ合衆国 の小説家 。1950年代 のビート・ジェネレーション を代表する作家の一人である。
来歴
バロウズは1960年代 には、J・G・バラード らによってニュー・ウェーブ SF の星と評価された。その後も、パフォーマンス・アーティスト のローリー・アンダーソン や、ロック ミュージシャンのカート・コバーン (ニルヴァーナ )らが彼に心酔している。私生活では、妻のジョーン(1923–51)を射殺するなどの事件を起こしている[ 2] 。
1914年 、アメリカ合衆国 ミズーリ州 セントルイス に生まれる。ニューヨーク州 生まれの祖父ウィリアム・シュワード・バロウズ1世 はキー入力式歯車式加算機 を安定駆動する油圧装置 を発明した発明家 で、バロース加算機社 [ 3] を設立したことで知られる。しかし彼は43歳で早世し、残された息子たちは遺産管理人 のアドバイスに従い、相続 した株式 や特許 の全てを売却してしまう。
バロウズの父モーティマー(1885–1965)はガラス 工場を経営する中小企業 主だった。その息子であるバロウズはアメリカ中西部 で退屈な少年時代を送った。高校時代は魚釣り 、狩猟 、ハイキング を好み、そして何よりも本をよく読んだ。学校には全く馴染めなかった。その後は名門であるハーバード大学 に入学する。英文学 を専攻し、T・S・エリオット を研究した。もっとも、英文学を専攻したのは、単にそれ以外に興味を持てる学科 がなかったからというだけの消極的理由によるものだった。また、学業にあまり熱心でなかったバロウズがハーバード大学に入学したのは、母親ローラ(1888–1970)の期待に応えるためだったとも言われる。在学中にイリノイ州で売春宿を利用したり、ニューヨークのハーレムやグリニッジ・ヴィレッジのLGBTコミュニティで、同性愛の人々と交流したりといった経験をした。1936年 に、本人いわくまずい成績で大学を卒業してから、毎月受け取ることになった信託財産 (仕送り )のおかげで、バロウズ自身、当初は働く必要は何もなかったと明言している。しかし徐々にかさむ麻薬 代を工面するために、初めて働く必要に迫られた。
当時は世界恐慌 の真っ直中で、ハーバード大卒という学歴 も役に立たず、ヨーロッパ へと旅行に出掛ける。旅先ではウィーン の医学校 に入学した。そこで知り合ったユダヤ人 女性イルゼ・クラッパー(Ilse Klapper)との偽装結婚 によって彼女のアメリカ(ニューヨーク市 )への国外逃亡の手助けをしている。時勢は徐々に、しかし確実に二度目の世界大戦 へと向かいつつあり、ナチス とその反ユダヤ主義 の不穏な影が急速な広がりと共に迫って来ていた時代である。バロウズも、肝心の医学校には結局6ヶ月間しか通うことがなかった。しかしながら、医学 への興味と関心は失われることがなく、生涯に渡る趣味として学び続けた。また、ウィーンの医学校での出会いから始まったイルゼとは9年で離婚したが、友情自体は長く持続させた。
帰国後はシカゴ でアルフレッド・コージブスキー の一般意味論 のセミナーを受講し、また柔術 を学んでもいたという。次いでコロンビア大学 大学院で心理学 と人類学 の講義を2年間受け、そのまま母校のハーバード大学大学院で人類学 の講義をさらに2年間受けた。またこの間に3年ほど、真剣に精神分析 治療を受け、最終的に彼は抑圧と不安から解放され、自分で自分が生きたいように生きられるようになる(あるいは救いと解放を得る)ことに成功する。ちなみにこの治療に当たった精神分析医は、最後までバロウズの「性的指向 」(彼は同性愛者 あるいは両性愛者 であった)を執拗に問題視し、「治療」の試みを諦めることがなかったが(当時、同性愛は治療可能な精神疾患 の一種だと考えられていた)、バロウズはそれを意に介することなく治療を終えた。
その後は住む場所を転々としながら仕送りに頼りながら生活する。ニューヨークに住んでいた時にビート世代 の詩人アレン・ギンズバーグ や、作家ジャック・ケルアック らと知り合うことになる。バロウズはジョーン・フォルマー・アダムズと、ギンズバーグ、その最初の妻エディー・パーカーと共同生活をしていたことがある。バロウズとフォルマーは、一時ニューオーリンズに居住した[ 4] 。後にフォルマーとの間では離婚問題が課題となっていた。彼は1949年 からメキシコシティ に住んだが、フォルマーを射殺する事件を起こし、刑事責任を追及されることとなった。この事件に関する彼の説明は、二転三転している。フォルマーはまだ28歳だった。1953年 にデビュー作『ジャンキー (英語版 ) 』(Junkie: Confessions of an Unredeemed Drug Addict )を発表する。しかしながらアメリカの文学界 における反響は皆無で、一時は作家として生きていくことを諦めた。1953年 、モロッコ のタンジール に移住し、同時に15年以上浸ったドラッグ と決別する姿勢を見せ始める。1959年 、ギンズバーグらの熱心な勧めと手助けにより、書き溜めた文章を元に構成した小説『裸のランチ 』を発表する。その内容は猥褻 なものであり、アメリカ政府 から発禁 処分を受けるはめになる。しかしこのことがかえって話題となり、実験小説 の雄として祭り上げられた。
一度はドラッグから完全に足を洗っていた(後年には禁煙にも挑戦し、成功させた)バロウズだが、65歳(1979年 )になって再びヘロイン 依存症 に陥ってしまう(これには彼の元に感心しかねる “贈り物” を持参してくる熱心なファンの影響があったとも言われている)。このため、1997年 に83歳で亡くなった時にはメサドン による維持療法 を受けていた。
友人のブライオン・ガイシン とともに、文章をバラバラに刻んでランダム に繋げる「カットアップ 」という実験的な手法の発明者であり、この手法を駆使した作品を何作か発表しているが、1980年代 に入ってからはストーリー性を重視したスタイルに移行している。『裸のランチ 』は、1992年 にカナダ の映画監督デヴィッド・クローネンバーグ により映画化された。ただ、作品は原作を忠実になぞったような性格のものではなく、あくまでバロウズの作品を元に、クローネンバーグによって新たに再構成された、オリジナル作品というべき内容になっている。
1960年代 ~1970年代 以降、バロウズの作品はSF 界でも注目され、J・G・バラード やジュディス・メリル はバロウズ作品を「理想的なSF」と呼んだ。山野浩一 がセレクションした「サンリオSF文庫 」にも作品が収録されている。また安田均 ・大野万紀 らが結成した「関西海外SF研究会 (KSFA)」というファングループ は、バロウズの作品から名前をとって、『ノヴァ・エクスプレス 』という同人誌を発行していた。
フィリップ・K・ディック の作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 』が映画化される際、関係者がたまたま手にとったバロウズの著作『ブレードランナー 』の語感が良かったので、映画の題名は『ブレードランナー 』となった(内容は全く無関係)。
主な著作
小説および長編
短編集
共著
『そしてカバたちはタンクで茹で死に』 And the Hippos Were Boiled in Their Tanks 1945年(出版 2008年)[ 5]
『麻薬書簡 』 The Yage Letters 1963年[ 6]
『麻薬書簡』飯田隆昭 、諏訪優 訳 思潮社 (現代の芸術双書19)1966年 のち同社新装版 1973年 のち同社再版 1986年
『麻薬書簡 : 再現版』山形浩生訳 河出書房新社(河出文庫 )2007年
ディスコグラフィ
『ザ・プリースト ゼイ・コールド・ヒム』 the "Priest" they called him
バロウズの大ファンだったニルヴァーナ のカート・コバーン との共演作品。
フィルモグラフィ
出演(劇映画)
出演(ドキュメンタリー映画)
DVD
Video
関連映画
参考文献
関連項目
脚注
外部リンク