インターナショナル・タッグ王座(インターナショナル・タッグおうざ)は、全日本プロレスが管理、PWFが認定している王座。
NWAの認可だったこともあり、日本国外ではNWAインターナショナル・タッグ王座(NWA International Tag Team Title)とも呼称されている[1]。現在は世界タッグ王座を構成しているチャンピオンベルトの1つである。
歴史
日本定着前
日本プロレスがロサンゼルスのWWAに働きかけ、アメリカで創設された王座である。
1966年9月、フリッツ・フォン・ゲーリング(英語版)&マイク・パドーシスが日本プロレス参戦前に、王者チームとして認定された。初代王者チームはアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンのファビュラス・カンガルーズで、ゲーリング&パドーシスは第6代王者とされるが、ゲーリング組が来日するまでの変遷はフィクションと見られている[1]。
ベルトのデザインは、鷲の大きさや羽根の開き方など多少の違いはあるものの、ベースはNWAアメリカス・ヘビー級王座のベルトとほとんど一緒となっており、これはカップやトロフィー、メダルなどを製造する浅草の松本微章工業の作品として知られる[2]。日本プロレスはインタータッグ王座を新設するにあたって、同社製造のシングル王座のベルト(黒革に青字を張ったベルト)に少し似せた雰囲気の黒革のみのベルトを日本で作らせ、それをケースに入れて梱包し、羽田からロサンゼルスへ空輸する手続きをしたと、当時の日本プロレス経理担当者が語っている[2]。
そのベルトをロサンゼルスで最初に巻いたのはザ・ビジランテス(ジェリー&ボビーのクリスティ・ブラザーズ)とされており、次にゲーリング&パドーシスに移動させるなどして、アメリカでの既製ベルトのように見せかけて箔を付けた[2]。選手権の様子は東京スポーツのロサンゼルス特派員が随時、写真を日本に送って紙面に掲載した[2]。南カリフォルニアを地盤とするWWAは、自分たちとは無関係なテリトリーのレスラーを使って、提携先だった日本プロレスのストーリー作成に協力していた[2]。
日本定着後
1966年11月5日にジャイアント馬場&吉村道明がゲーリング&パドーシスを破って王者チームとなって以来、日本を代表するタッグ王座として幾多の名勝負を生んだ。
歴代王者には馬場&アントニオ猪木(BI砲)、馬場&坂口征二(東京タワーズ)、馬場&ジャンボ鶴田(BJ師弟コンビ)をはじめ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク(ザ・ファンクス)、大木金太郎&キム・ドク、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、ホーク・ウォリアー&アニマル・ウォリアー(ロード・ウォリアーズ)、鶴田&天龍源一郎(鶴龍コンビ)、長州力&谷津嘉章などの名コンビが名を連ね、挑戦者チームも、フリッツ・フォン・エリック&ワルドー・フォン・エリック(フォン・エリック・ブラザーズ)、スカル・マーフィー&ブルート・バーナード、ダスティ・ローデス&ディック・マードック(テキサス・アウトローズ)、キング・イヤウケア&ブル・ラモス(ザ・タイクーンズ)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ(ミラクルパワーコンビ)、ミル・マスカラス&ドス・カラス(マスカラス・ブラザーズ)、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ(ファビュラス・フリーバーズ)などプロレス史上に残るタッグチームや、ハンス・シュミット&バディ・オースチン、マッドドッグ・バション&キラー・カール・コックス、ジン・キニスキー&ジョニー・バレンタイン、ブルーノ・サンマルチノ&キラー・コワルスキー、ビル・ロビンソン&ワフー・マクダニエルといった即席ながら強豪外国人同士のドリーム・チームまで、幾多の名レスラーや名コンビの名前が並んでいる。大木&ドクの戴冠時には、当時の国際プロレスの最強コンビだったラッシャー木村&グレート草津も挑戦した[3]。
馬場&吉村の王座獲得から1973年4月までは日本プロレスの管理下にあったが、日本プロレス崩壊後の1973年5月から1975年2月まではファンクスがタイトルを保持し、本拠地のテキサス州アマリロや全日本プロレスにおいて防衛戦を行っていた。アマリロでは、1974年に馬場&パク・ソンやブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ(ザ・ブラックジャックス)の挑戦を受けている[4][5]。1975年2月5日、テキサス州サンアントニオで馬場&鶴田がファンクスを破って王座を奪取、以降は全日本プロレスのフラッグシップ・タッグタイトルとなった。1982年8月30・31日にプエルトリコのサンフアンで行われたNWA総会では「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理および運営を一任する」という決定がなされ(総会に出席した馬場のコメント)[6][7]、NWAから全日本プロレスに管理権を委託したことが正式に発表された。
昭和末期になるとシングル王座の三冠統一同様にタッグ王座も統一の機運となり、1988年、インターナショナル・タッグ王者のウォリアーズとPWF世界タッグ王者の鶴田&谷津(五輪コンビ)の間で統一戦が行われ、五輪コンビが勝った[8]ことにより両王座は世界タッグ王座として統一された。
歴代王者(日本定着後)
脚注
外部リンク
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選手および活動ユニットの欄における選手・ユニットは、五十音順。ただし、各ユニットの欄において、リーダー・発起人であることが明確な選手は、先頭に記載。 |
選手 |
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活動ユニット・タッグ |
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スタッフ |
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役員ほか | |
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王座 |
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廃止された王座 | |
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リーグ戦・ トーナメント戦 | |
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その他の関係者 | |
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関連組織・団体 | |
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テレビ番組 | |
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テレビゲーム |
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その他関連項目 | |
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