|
アンドレイ・グリアゼフ Andrei Griazev |
|
|
---|
2005年スケートカナダの練習中に |
生誕 |
(1985-07-26) 1985年7月26日(39歳) ソビエト連邦 ペルミ |
---|
身長 |
176 cm |
---|
選手情報 |
---|
所属クラブ |
CSKAモスクワ |
---|
引退 |
2009年 |
---|
ISUパーソナルベストスコア |
---|
|
大会成績 |
|
国内大会
|
1位
|
2位
|
3位
|
ロシア選手権
|
1
|
1
|
2
|
ロシアジュニア選手権
|
1
|
1
|
0
|
|
|
|
|
アンドレイ・ヴラジーミロヴィチ・グリアゼフ(ロシア語: Андрей Владимирович Грязев[1]、1985年7月26日[2] - )は、ロシアのペルミ出身の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。
2004年世界ジュニアフィギュアスケート選手権優勝。2007年ロシアフィギュアスケート選手権優勝。
経歴
1985年7月26日、ロシアのペルミで生まれる[3]。4歳のとき、スケート教室が生徒を募集していることを知った母の勧めでスケートを始める[4]。
11歳のときにサンクトペテルブルクへ移り、アレクセイ・ミーシンの指導を受け始める[4]。ミーシンチームに入る事になってからは兄弟子であり憧れの人だったアレクセイ・ウルマノフの尽力もあり、彼の提供したアパートに住んでいた。[5]。
2000-2001シーズンからISUジュニアグランプリ (JGP) に参戦し、2001-2002シーズンにはJGPで2連勝。しかし世界ジュニア選手権で総合14位という惨敗を喫し、理由が諸説あるがミーシンの元を離れその後3か月間リンクから離れていた[4]。
その3か月後、ミーシンの元での兄弟子だったアレクセイ・ヤグディンの勧めでタチアナ・タラソワのもとに移った[4]。2003-2004年シーズンの世界ジュニア選手権では優勝を果たし、2004-2005シーズンよりシニアへ移行。2006-2007シーズンにはロシア選手権を制した。
旧採点システムでの最後の世界ジュニアチャンピオンでもあり、新採点で最初のロシアチャンピオンでもある[6]。
2009年に怪我で現役を引退。その後は所属していたCSKAモスクワでコーチをしていたが後にロシア国外のアイスショーのロイヤル・カリビアン・インターナショナル内のアイスショー[7]やホリディ・オン・アイスやホット・アイスなどに2016年まで出演していたが、その後はロシアに帰国している。
スケート技術
ミーシンの元でダブルアクセルが跳べるようになり、14歳の時にトリプルアクセルが跳べて試合に組み込んだが最初のコーチのアンドレイ・キスルキンから多くの技術を学んだとグリアゼフは話している[8]。ジュニアからシニアに上がった頃にグリアゼフにヤグディンがジャンプを教えていた時期もあり単独とはいえ4回転トゥループを19歳の時の欧州選手権と世界選手権のFSでは成功させている。しかしその後のシーズンからは怪我での手術の影響で4回転を外した構成にする事が多くなり挑戦しても失敗していた。
彼の持ち味である助走の短いトリプルアクセルの質の良さに織田信成は最初に意識した選手と話している[9][10]。
スケーティングやステップなどはアメリカのシムズベリー拠点だった時は当時タラソワのアシスタントコーチだったエフゲニー・プラトフやマイヤ・ウソワが指導していた。モスクワにタラソワと共に帰還してからはタラソワの体調不良の問題もあり彼女の友人であったエレーナ・ブイアノワが主に見ていたが、タラソワも時折リンクに赴きアドバイスをしていた。
エピソード
- グリアゼフの最初のコーチのキスルキンはヤグディンの妻でトリノ五輪のペア金メダリストのタチアナ・トトミアニナのシングル選手時代のコーチでもあり、グリアゼフは夫妻の共通の弟弟子である[11]。
- ヤグディンは2003-2004シーズンのグリアゼフのISUジュニアグランプリの試合に多忙のタラソワに変わってコーチとして帯同していた。このシーズンのISUバイオのコーチ欄にはヤグディンの名前が掲載されていた[12]。ヤグディンとグリアゼフはグリアゼフがペルミから来た11歳の時からの友人で、憧れの人もウルマノフと同じであるが、かつての兄弟子だったエフゲニー・プルシェンコとは「ハロー、グッバイ」としか会話せずプルシェンコの事は好きではないと不仲を公言している[5]。
- 1999年9月のプルシェンコ親善ツアーで日本人ファンがサンクトペテルブルクに来訪した時、当時14歳の彼がミーシンチーム有望の選手として紹介されていた。
- ジュニア時代のISUプロファイルの趣味欄には、読書、音楽鑑賞とともに木彫り(woodcarningと当時のISUバイオに書かれていた[13]が、woodcarvingの間違いと思われる)と書かれていた。2つ上の兄セルゲイと一緒にやっていたという。しかし渡米した後のインタビューではやる暇がないと語っており、その後はコンピュータゲームに変わり木彫りは書かれていない。
- ロシアチャンピオンになった後のインタビューでロシア国内のジャンプ偏重主義を批判し、織田や髙橋大輔などの日本選手や北米選手のようにジャンプがプログラムに溶け込むようなスケートをすべきとスケーティングスキルの向上も訴えている[14]。
- 2007年のNHK杯で来日した時にコーチが来日できなかったポーランドのペアのドミニカ・ピョントコフスカ&ドミトリー・クロミン組の手助けやアドバイスをしていたが、クロミンはグリアゼフがサンクトペテルブルクに来た時にコーチなしでたくさんの試合に行かなければいけなかった時に手助けをしてくれた恩人で友人だったからだった[15]。
主な戦績
詳細
2008-2009 シーズン
|
開催日
|
大会名
|
SP
|
FS
|
結果
|
2008年12月24日-28日
|
ロシアフィギュアスケート選手権(カザン)
|
7 66.02
|
6 126.13
|
5 192.15
|
プログラム
脚注
- ^ ロシア語ラテン翻字: Andrei Vladimirovich Griazev
- ^ a b 『フィギュアスケート選手名鑑 2006』新書館、2005年12月、p.99
- ^ a b c d e 斎藤貴子編『COLORS フィギュアスケート男子シングルフォトブック』あおば出版、2006年2月、 pp.96-97
- ^ a b c d 国際スケート連盟によるバイオグラフィー
- ^ a b “Чемпион России Андрей Грязев:”. 2018年6月16日閲覧。
- ^ ロシア国内では機械が買えなかった影響で新採点システムの移行が2006-2007シーズンからと遅かった。
- ^ http://web.icenetwork.com/news/article.jsp?ymd=20130719&content_id=54060080&vkey=ice_news Griazev gravitates toward professional skating
- ^ [1]
- ^ 2015年6月の講演にて
- ^ 織田信成、安藤美姫が語る!思い出の世界ジュニアフィギュアスケート選手権
- ^ Кислухин Андрей Александрович
- ^ [2]
- ^ [3]
- ^ ワールド・フィギュアスケート31より
- ^ Interview with Andrei Griazev December 2007
- ^ 国際スケート連盟によるバイオグラフィー
外部リンク