アルーシャ (Arusha )は、タンザニア の都市 。タンザニア連合共和国を構成する地域の1つ、タンガニーカ の北東部に位置し、グレートリフトバレー 内の高原にある。アルーシャ州 の州都。約42万人の市内人口を抱えるほか、周辺地域を含めて74万人規模の都市圏を形成している[ 2] 。東アフリカ共同体 の本部が所在する。
都市・交通
主要作物であるコーヒー やサイザル麻 の栽培が盛んだが、輸送の中心地でもあり、インド洋 に面した国内最大都市であるダルエスサラーム 、同じくインド洋の都市タンガ 、そしてケニア の港湾都市モンバサ と鉄道 でつながっている。
アルーシャ周辺にはセレンゲティ国立公園 やオルドバイ峡谷 、キリマンジャロ山 、ンゴロンゴロ保全地域 、アルーシャ国立公園 、メルー山 など、世界的に有名な観光スポットが数多く存在するため、それらへ向かう観光 客の玄関口の役割も果たしている。これらの各観光地を訪れる観光客のほとんどは、アルーシャ近郊のキリマンジャロ国際空港 を利用する。また、より小規模な国内線用空港としてアルーシャ空港 がある。
会談・協定の地 アルーシャ
アルーシャは会談・協定の地 として、いくつもの国際会議を開催し、その名は調停役としてのタンザニアの名と共に、広く世界に知られるようになる。
タンガニーカ共和国独立宣言
アルーシャは1961年 、タンザニアの前身となるタンガニーカ共和国の独立宣言を、イギリス が承認した地でもある。
タンガニーカ・ザンジバル連合共和国の樹立宣言
1964年 4月26日 、タンガニーカとザンジバル による国家連合(タンガニーカ・ザンジバル連合共和国 、後のタンザニア連合共和国 )樹立が宣言されたのも、アルーシャであった。
アルーシャ宣言
1967年 2月、タンザニア連合共和国初代大統領 であったジュリウス・ニエレレ は『アルーシャ宣言 (英語版 ) 』を発表。タンザニアの社会主義 化をすすめ、中華人民共和国 との結びつきを強める一方、経済の自立化を図り農業 の集団化を導入した。彼の政策は一般にウジャマー村構想 として知られ、アフリカ 部族社会独自の社会主義的農業経営方法であるウジャマーを重視し、銀行 や企業 の国営化などの統制経済により社会の平等化を図る彼の理想主義の現れであった。結局この計画は農業生産の激減などで失敗に終わるも、アフリカ人による独自路線の追求は、欧米 の援助を頼る追従路線をとっていた他の途上国に、少なからず影響を与えたといえる。
また、東アフリカ を東アフリカ連邦 (英語版 ) に統合する構想[ 3] [ 4] [ 5] を掲げてきたニエレレの後押しで、同年6月に東アフリカ協力条約が締結され、アルーシャに東アフリカ共同体 の本部と事務局が設置された[ 6] 。
1979年 7月、ニエレレが議長を務めるフロントライン諸国 (英語版 ) はアルーシャで白人国家ローデシア やアパルトヘイト 体制の南アフリカ共和国 から自立した経済圏を目指す南部アフリカ開発調整会議 (英語版 ) の創設を決定し、翌年1980年 4月にザンビア のルサカ で設立された。これは南部アフリカ開発共同体 の前身になったが、1982年 から事務局はボツワナ のハボローネ に置かれた[ 7] 。
アルーシャ協定
1993年 8月4日 、ルワンダ政府とルワンダ愛国戦線 (RPF) との間で戦われたルワンダ紛争 の仲介をタンザニアが担当し、アルーシャで和平協定のアルーシャ協定 が調印された。これに伴い、ルワンダでは暫定政府が樹立され、戦闘は一応の収束を見た。ただし、この後戦闘は再開され、1994年 7月 まで続いた。この際に行なわれたジェノサイド の責任追及のための国際裁判所、ルワンダ国際戦犯法廷 (ICTR) がアルーシャに設置されている。
1999年 11月に東アフリカ共同体設立条約が締結され、2001年 1月に再設置された東アフリカ共同体の本部もアルーシャに設置された。また、2006年 7月3日 、アフリカ連合 によりアルーシャにアフリカ人権裁判所 が設置された。
姉妹都市
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関連項目
参考文献
^ “TANZANIA: Administrative Division ”. Citypopulation.de (2019年9月28日). 2021年2月8日 閲覧。
^ Population Distribution by Administrative Areas , 2012 Population and Housing Census, National Bureau of Statistics, United Republic of Tanzania, 2013, page 26, accessed 1 November 2014
^ Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X . p. 173
^ Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110 . p. 55
^ Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.
^ "TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967" (PDF) (Press release). Kenya Law. 2018年6月30日閲覧 。
^ “HISTORY AND TREATY ”. 南部アフリカ開発共同体. 2018年7月14日 閲覧。
座標 : 南緯03度22分 東経36度41分 / 南緯3.367度 東経36.683度 / -3.367; 36.683