エルネスト・ホセ・ヴィソ・ロサダ (Ernesto Jose Viso Lossada, 1985年3月19日 - ) は、ベネズエラのレーシングドライバー。アメリカで活動し始めてからは、E.J.ヴィソと表記される。
ヴィソはカラカスに生まれる。2005年と2006年のGP2シリーズに参戦し、2006年はスパイカーMF1レーシングのサードドライバーも兼任していた。2007年はレーシング・エンジニアリングからGP2シリーズに参戦。2008年から2013年までインディカー・シリーズにフル参戦した。
経歴
初期
ヴィソは1993年にカートレースを始める。カートでチャンピオン獲得後、2001年にUSバーバー・フォーミュラ・ダッジ・イーストにステップアップする。また同年末にはイタリア・フォーミュラ・ルノー・ウィンターシリーズにも参加し、翌2002年はブリティッシュ・フォーミュラ・ルノーに参戦する。2002年はフォーミュラ・ルノー2000ユーロカップの1戦にも参加し、年末にはイギリスF3ウィンターシリーズに参加した。
2003年はイギリス・フォーミュラ3選手権に参戦、Bクラスに参加し、論議を呼んだ最終戦でのライバルとのクラッシュの後、チャンピオンとなった。翌2004年はメインクラスに参加、シーズンの1部はP1チームから出場し、そこでの活躍がF3000で活動するデュランゴチームの目を引く。シーズンの残りは同チームから出場することとなった。
GP2
2005年はBCNコンペティションからGP2シリーズに参加、吉本大樹がチームメイトとなる。2006年はiスポーツ・インターナショナルに移籍、サンマリノおよびスペインで優勝した。同年はスパイカーMF1レーシングのサードドライバーとしてブラジルグランプリの金曜日プラクティスでインテルラゴス・サーキットを走行した[1]。
フランスラウンドの前に、レーシング・エンジニアリングは競走能力に欠けるセルジオ・ヒメネスとヴィソを交代させるとした[2]。しかしながら彼のレースは第1ラップでのミハエル・アメルミューラーおよび中嶋一貴との壮絶なクラッシュで終わりを告げた。彼のマシンは猛烈なスピードでバリアの上を飛んで宙返りしたが、幸いなことに脳震盪と腕の負傷だけで済んだ。この事故は同じサーキットで1995年にマルコ・カンポスが起こした事故と非常によく似ていた。カンポスは頭部をコンクリートバリアーにぶつけて死亡したが、ヴィソは同様の運命から数インチの差で免れることができた。イギリスラウンドで彼はフェリペ・アルバカーキと交代することとなった[3]。ヴィソは続くヨーロッパラウンドに参戦したが、その後はマルコス・マルチネスと交代した。
インディカー・シリーズ
2008年はHVMレーシングからインディカー・シリーズに参戦する。第2戦のセントピーターズバーグでは4位に入賞し、第7戦のミルウォーキーでは8位に入った。2013年にアンドレッティ・オートスポーツに移籍し、自身シリーズ最高位となるランキング15位(決勝最高位4位)を記録。
記録
イギリス・フォーミュラ3選手権
国際F3000選手権
(key)
GP2シリーズ
F1世界選手権
(key)
アメリカン・オープンホイール
インディカー・シリーズ
- 1 同日に開催
- 2 流行性耳下腺炎に感染したため出走を撤回した。
- 3 ノンタイトル戦として開催
- 4 ラスベガス・インディ300はダン・ウェルドンが死亡することになった11ラップ目の15台を巻き込むクラッシュの後、中止された。
年
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チーム
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出走数
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ポールポジション
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勝利数
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表彰台 (勝利以外)**
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トップ10 (表彰台以外)***
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インディ500勝利数
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チャンピオン獲得数
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5
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2
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70
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0
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0
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1
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14
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0
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0
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インディ500
脚注
外部リンク
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