高村 一明(Kazuaki Takamura, たかむら かずあき、1966年9月25日 - )は、三重県出身の元レーシングドライバー。
経歴
1984年からレーシングカートを開始。1987年にFJ1600へとステップアップ。1989年に鈴鹿FJ1600A、FJ1600Bと西日本サーキットFJ1600Aの3つのタイトルを獲得し「FJ三冠王」となった[注釈 1]。
1990年に戸田レーシングより全日本F3選手権へステップアップ[1]。第3戦、第4戦と連続表彰台に立ち「F3ルーキーらしからぬ速さ」と評される[2]。第7戦筑波ではポール・ポジションも獲得し、F1日本グランプリのサポートレースで優勝を果たすと、最終戦でもポール・トゥ・フィニッシュで優勝しランキング5位を獲得した。
1991年の開幕前には、前年のF3ランキング上位3名がF3000のシートを得てステップアップしたことから、高村はF3チャンピオン争いの筆頭候補であるとの呼び声も高かったが[3]、開幕戦では3位表彰台に立ったものの2戦目以降は結果が伴わずに苦戦。7レースに渡ってポイント獲得が出来ない苦しみを味わった。シーズン終盤に連続表彰台に立ち復調をみせたが、ランキングは前年を下回った。復調後は10月のF1日本GPサポートレースのF3で前年に続く優勝、富士で行われたインターナショナルF3では、ファイナルレースでトム・クリステンセンとのバトルを繰り広げ、最終的にはホルディ・ジェネ、デビッド・クルサード[4]に次ぐ日本人トップの成績となる3位表彰台を獲得し注目を集めた[1]。これら国際規格レースでの好結果が多いことで「大舞台に強い男」と呼ばれた[5]。
1992年、ホシノレーシングに移籍し、当時トップレーサーの証でもあった「CABINカラー」のラルト・無限で迎えるF3三年目となりチャンピオン候補と目されるが、第3戦富士での2位を最高位に優勝が無くランキング6位に留まった。当初使用予定だったラルト・RT36の不出来(他車のスリップストリームに入ることが出来ないストレートスピードの遅さがラルトユーザーを悩ませた[6])もあり旧型RT35への乗り換えなど、波に乗り切れないシーズンとなった[7]。
1993年は参戦体制を一新。マシンもこれまでのラルトからレイナードとなり、テクノスジャパンレーシングからの参戦となった。開幕戦ではリタイヤを喫したが、以後は全戦で完走。最終戦で3位となりシーズン初表彰台を獲得した。
1994年はスーパーN-1耐久シリーズ(現スーパー耐久)にトヨタ・スープラで参戦したほか、8月のインターナショナルポッカ1000km耐久レースに参戦しRSクラス優勝を果たした。
レース戦歴
全日本F3選手権
マカオグランプリ
N1耐久レース
関連項目
脚注
注釈
出典
- ^ a b レースヒストリー 戸田レーシング
- ^ Panasonic F3スーパーカップ Drivers F1日本グランプリ公式プログラム 117頁 鈴鹿サーキットランド 1990年10月発行
- ^ F3シリーズ終盤戦 若手の活躍に期待 Racing On No.110 53頁 武集書房 1991年12月15日発行
- ^ 第2回インターナショナルF3リーグ リザルト JAFモータースポーツ
- ^ F3 SUPER CUP 勝利の先にF1は見えるか F1日本グランプリ公式プログラム 110頁 鈴鹿サーキットランド 1992年10月発行
- ^ 富士も苦しんだRT36勢・現在ラルトでデザイナーが対策中 Racing On No.121 47頁 1992年6月15日発行
- ^ F3 SUPER CUP 俺たちの晴れ舞台 F1日本グランプリ公式プログラム 106頁 鈴鹿サーキットランド 1993年10月発行
- ^ 会社沿革 R&D SPORTS