風魔(かざま/ふうま)、風摩/風广は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で敵方の武田の陣に夜討ちをする集団を率いた乱波として紹介されている人物。後北条氏の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『関八州古戦録』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。
また同著者の『見聞集』には、江戸時代初期に向崎甚内が関東各地の盗賊の首領を「風魔の一類らっぱの子孫ども」だと告発して江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、盗賊は根絶やしにされたが、後で向崎甚内も「大盗人」として処刑された、との逸話がある。
『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎とは別人。派生して物語に登場する人物として風魔小太郎は著名。
三浦浄心が著した寛永18年(1641年)刊の『北条五代記』によると、天正9年(1581年)の秋に北条氏直が黄瀬川をはさんで武田勝頼・信勝父子と対陣したとき、風广と「四頭」に率いられた山賊、海賊、強盗、窃盗の「四盗」、合計200人から成る一党は、夜々に黄瀬川を渡って敵陣を襲い、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、更にあちこちに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。頭目の風广について、武田軍の兵士は「身の丈7尺2寸(約218cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという。[1]
『北条五代記』には、後北条氏滅亡後、風广の噂や乱波の名前は関東から消え失せた、とあるが、同じ三浦浄心の著書『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領はみな昔有名だったいたづら者、風广が一類・らっぱの子孫どもです。自分は居場所を知っているのでご案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたという逸話を載せている。同書によると、後に向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613年)に浅草原で処刑された。
『北条五代記』や『見聞集』の作中では、風魔の出自や根拠地などは明らかにされていない。
三浦浄心の著書-『北条五代記』寛永版・万治版および『見聞集』[2]-における表記は「風广」で、「广」は浄心の著書の中で「天广」「須广」「薩广」「達广」など「まだれ」の漢字全般の略字として用いられている。読みは『北条五代記』に振仮名「かざま」とあり、『見聞集』には振仮名がない。
明治期以降の翻刻刊行の際に、漢字表記は「風广」「風魔」「風摩」にわかれており[3]、振仮名は全般に脱落している(下表)。
[4]
後北条氏の発給文書に、『北条五代記』の風魔のモデルと思しき「風間」の人名がみえることは、文政13年(1830年)の『新編武蔵風土記稿』の中に指摘があり、その後、関連する文書が何件か見つかっていて、中でも「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あることが知られている[5][6][7]。
元亀3年(1572年)5月7日付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は、岩井弥右衛門尉らに、風間の受け入れの準備をさせるよう指示した[8]。
(虎朱印)壬申(元亀3年・1572)五月七日 笠原藤左衛門尉奉 岩井弥右衛門尉殿 中村宮内丞殿 足立又三郎殿 浜野将監殿 立川藤左衛門尉殿
(以下略) (注) 相断(談):そうだん:相談[9] 承引:しょういん:承諾(する)[10] 書付:かきつけ:誰の物か、または、誰に属する物かを記した張紙、または書きつけ[11] 明鏡に:めいけいに・めいきょうに:(めいけい)明らかで純粋なもの。方正で純真な人(めいきょう)澄んだ鏡[12]。道理に任せてひいきなく[13] 件:くだん:以前のこと、または、上に述べたこと[14]
(以下省略)
元亀4年(1573年)12月10日、後北条氏(評定衆・勘解由左衛門尉康保)は、(武蔵国の)「すな原」の百姓達からの訴えを受けて、以後、風間を「すな原」に在宿させないとする裁許朱印状を与えた[23]。
(虎朱印)元亀4年癸酉(1573年)十二月十日 評定衆 勘解由左衛門尉 康保(花押) すな原百姓中
(以下省略) (注) 迷惑:めいわく:苦悩、心を痛めること[24]。現代語のような、他人からかけられた精神的・物質的損害よりも、精神的・肉体的に困惑し、どうしてよいかわからないような本人の苦悩の状態を表わす[25]。 余儀ない:よぎない:のがれられない(こと)[26] 向後:きょうこう:これから先、以後[27] 置く:おく:置く、残して置く、放置する[28] 仰せ出さるる:おおせいださるる:命ずる、言う[29]
『関八州古戦録』巻10「多賀谷政経乗捕湯田砦事」には、関宿城落城の翌年・甲戌(天正2年・1574年)の秋、猿島領が後北条氏の持分となったため、北条氏政が伊勢備中守貞連に命じて湯田村(坂東市弓田)に砦を築かせ、飯沼の対岸にあった天満天神の社を焼き払って城を築き、風間孫兵衛(または孫右衛門)と石塚藤兵衛に軽卒300人を付けて守らせた。これは多賀谷政経の領地を押さえ、敵方の隙をついて襲撃するためだった、との記事がある。
同書によると、多賀谷政経・重経父子は、岡田原(常総市岡田)へ打ち出して湯田の城兵を花島(茨城県常総市花島町)へ誘い出し、鬼怒川の下流から兵を回して退路を断ち、古間木(茨城県常総市)の城主・渡辺周防守が仁連村(茨城県古河市)を越えて湯田砦を焼き討ちにして大勝し、後北条氏の軍勢は関宿城へ退却して、多賀谷氏が下猿島を占領し、大生郷天満宮を再建した、という。
類似の記事は、『関八州古戦録』以前に成立した下妻・多賀谷氏に関する諸記録にもみえる。
自序により元禄2年(1689年)成立の『(常陽下妻香取宮)円福寺記録多賀谷譜』[47]の多賀谷政経の伝によると、北条氏が下総国猿島郡湯田村に砦を構えたのは(天正2年・1574年ではなく)天正3年(1575年)であり、向城とされた天神城に籠ったのは「風間」が率いる300騎のみで、「石塚」は多賀谷重経方の渡辺周防守とともに湯田砦を襲撃する飯沼の郷士とされている。
また同書の多賀谷重経の伝によると、政経の死後、天正4年(1576)6月に北条氏政が常総に発向して湯田から飯田(沼カ)を渡って天神城に籠り、下妻を攻めようとしたため、多賀谷重経は佐竹義重に救援を求め、援軍に来た佐竹義昌と湯田砦を攻め、損害を与えたが、北条方の天神城は堅く守り、その後、湯田砦を修復して同5年(1577年)以降も結城氏と通じて下妻を窺い、佐竹・多賀谷方の小田城や谷田部城を攻撃した、とされている(多賀谷政経・重経父子が北条氏に戦勝して下猿島を回復したとする「湯田砦の戦い」の存在を否定する内容になっている)。北条軍が飯沼・湯田の両城から撤退したのは天正8年(1580年)12月のことで[48]、多賀谷氏が下猿島郡を領有したのは、天正9年(1581年)の正月とされている。
天正5年(1577年)2月、北条氏(評定衆・下総守康信)は、内田孫四郎に、同人に対する「風間同心渡辺新三」の訴えを却下した旨を伝えた[49]。
(虎朱印)天正五年〔丁丑〕二月十一日 評定衆〔下総守〕康信(花押) 内田孫四郎殿
(以下省略) (注) 知行:ちぎょう:領地[50] 拘(抱)え置く:かかえおく:ある人を扶養して、自分の奉公人として雇い入れる[51] 致(馳)走:ちそう:世話をし、手厚くもてなすこと[52] 廻らす:めぐらす:円く回らせる、回転させる/比喩(籌を運らす)策略を仕組む、何か物事を熟考する/(腸を廻らす)非常に腹を立てる、ひどく悲しむ(文書語)/(智恵を廻らす)思慮分別をもって熟考する、思案する[53] 同心:どうしん:賛成(する)[54] 糺明:きゅうめい:裁判、審問。審判する、取り調べる[55] 御前帳:ごぜんちょう:「御前」は「貴人の前」[56]。家臣の軍役を記した帳簿[57]
天正9年(1581年)以降、北条氏政が、この頃、岩槻城主だった十郎(氏房)に、夜間の備えの重要性を説き、かねてから準備を整えておくよう指示したと推定されている書状の中に、「風間処」に加勢することが重要だとの言及がある[64]。
十郎殿へ
十郎殿へ (注) 構え:かまえ:囲い、防壁、または設備[65] 肝要(用):かんよう:「専一」と同じ。必要で大切なこと[66] 仕置:しをき:(仕置をする)征服した国や土地に砦を造っておく、守備兵をおく[67] 極まる・極める:きわまる・きわめる:(きわまる)すっかり決定してしまう、落着する。または究極の状態になる。(きわめる)ある事を究極のところまでする。[68] 厳しい:きびしい:苛酷な、厳格な。(用心を厳しうする)非常に厳重に警戒する[69] あわたゝしい:何事かをなすのに、気がせいて、さっさとすませようとしたり、取り乱したりしている[70] 専一:せんいち:必須なこと、用件の基づくところ[71] かき:垣:柴や木などの垣[72] かき:鍵、鉤:鍵、木や鉄で作った鉤[73] かゝり:ある人が自分の職務として管轄している地域[74] かゝり:篝(かがり):夜、街路その他の場所で警固のために焚く火。(後略)[75] 大かたに:をうかたに:大部分、(大方、大方の)中位の、普通の。(これ大方の事ではない)これはありふれた出来事でもなければ、普通の事でもない[76] 口惜しい:くちをしい:残念で悔やまれる、腹立たしく思われる[77] 煩い:わずらい:病気。骨折りと辛労[78]
(推定天正10年・1582年、本能寺の変後の8-10月にかけて、後北条氏と徳川氏が上・甲・信・駿地方の領有を巡って争った若御子対陣[79] のとき、)9月13日付で、北条氏政は風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の信州における戦況の有利を伝え、当方と示し合わせて攻勢に出るよう指示した[80]。
(天正10年・1582年)九月十三日 氏政(花押) 風間出羽守殿
(以下省略) (注) 注進状:ちゅうしんじょう:「注進」は「陣中から主君に対して、戦争の経過とか、その他の事とかに関する情報を送ること」[81] 心地好い:ここちよい:「心地」は「態度、あるいは、様子」[82] 大手陣:おおてじん:「大手」は「城の正門」[83]。氏直の軍勢のこと[84]。この頃、甲州・若神子(北杜市須玉町)に在陣していた。 弥:いよいよ:ますます[85] 定使:ぢゃぅづかい:伝言を伝えたり、用足しをしたりなどする特定の人[86] 人(陣)衆:じんしゅ:兵士、または、陣営内にいる人々[87] 打ち着(付)くる:うちつくる:釘などのものを打ちつける、壁に粘土をくっつけるなど、物を投げつけたり、ぶつけたりしてそれを付着させる[88] 首尾:しゅび:頭と尾と。すなわち、始めと終わりと[89] 走り廻る:はしりまわる・はしりめぐる:走って回る[90]
2006年刊の茂木和平『埼玉苗字辞典』[91]および下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』[5] に、岩付城下・黒谷村(さいたま市岩槻区)の妙円寺の開基は、風間出羽守の嫡子・雨宮主水正、とあり、茂木は、「風間」は信濃国水内郡の式内社風間神社から起る在名で、本名が「雨宮」と推測し、黒谷村には、雨宮氏が5戸あり、風間氏は無い、と指摘している[91]。『岩槻市史 通史編』[92] には、「妙円寺:曹洞宗:開基:風間出羽守嫡子・雨宮主水正。開山:真浄寺第三世雪庭祖林和尚」とある[93]。
江戸時代に黒谷村の名主をしていた雨宮弥太夫家で安政2年(1855年)から書き継がれた「万代記録帳」(杉崎賢治家文書)[94] 中の「清和天皇七代之孫源頼義公 当家世代控」によると、同家の始祖は、「風間出羽守嫡子雨宮主水正〔本国紀州清和源氏頼義18代之後 風間出羽守〕」である[95]。雨宮主水正の没年は承応元年壬辰(1652年)で、その子(1689年没)から代々「弥太夫」を名乗ったとされている[95]。
明治8年(1875年)に調査が行われた『武蔵国郡村誌』の黒谷村 妙円寺の項には、「正保の頃、村吏雨宮利之助の祖先・風間出羽守庶子雨宮主水、開基創建すと云」とあり[96]、「利之助」の名は「万代記録帳」にもみえる[97]。
「万代記録帳」には、別に、雨宮家が毎年正月と7月に岩槻太田の浄源寺と、黒谷村の妙円寺と遍照院に付け届けをしており、妙円寺については、先祖が開基だった旨がみえる[98][99]。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』所載の聞書によると、黒谷の雨宮氏一党の本寺は浄源寺で、妙円寺には墓のみがあったが、遍照院に墓を移した、とされている[100]。
黒谷地区の雨宮姓には2系統あり、屋号「ホンケ」「トライチドン」の雨宮家には、4代前の継嗣が幼いうちに両親が死去したため、母方の実家のあった越谷市西新井で養われ、成長してから黒谷に戻り家を復活させたと伝えられていた[101]。
別系統の屋号「ケイッカ」の雨宮家は、嫡子は岩槻へ移住しており、先祖は大坂城で財政の仕事をしていたが、大坂落城のとき、松ブシのミンブサマと一緒に落ち延びてきた、と伝えられていた[101]。松伏町の石川民部家の祖流については、河内石川氏とする説もあり[102]、松伏町で2001-2002年頃、町史編纂のため聞き取り調査を実施した際にも、石川民部家始祖は大坂の陣の頃、関西から落ち延びてきた、との民間伝承が残っていた[103][104]。
「万代記録帳」が伝わった杉崎家は、雨宮家の継嗣の姉の嫁ぎ先で、雨宮家の継嗣が幼い頃に両親が死去したため、その後見人となり、継嗣は成長した後に岩槻へ移住したため、雨宮家の跡を継いだ、とされている[101]。
『武蔵国郡村誌』の下新井村の項に、同村の北方・飯塚村から南に流れて高曽根村・黒谷村の間に入る「風間堀」について言及がある[105]。1984年当時は「風間用水」と呼ばれるようになっており、「飯塚から南下新井・黒谷・高曽根へと続く」とされている[106]。
天明3年(1783年)の「飯塚村明細書上帳」には、元荒川から用水を引き入れるため、風間と風間新田の2箇所に圦(いり)を普請してある旨がみえ、風間の圦について飯塚・下新井・黒谷・高曽根・野島・孫十郎の6ヶ村、風間新田の圦について末田・飯塚の2ヶ村の組合とされている[107]。
一 村国村治郎兵衛裏より風間圦前迄堀長三百八拾三間 一 風間(圦)尻より往還石橋迄 七拾弐間 一 往還石橋より古川堤上口迄 弐百八拾八間 一 古川堤上り口石橋より下新井馬洗場石橋迄百五拾弐間 一 上曾根土橋より落口迄 六拾四間 〆堀長サ千六拾八間(約1.942km)有之申侯、右之役人者共算ニ当年 ハ〆九百五拾九間当有之、清水右金次当 — 風間堀筋之覚、「清水金之亮家文書」[108]
一 村国村治郎兵衛裏より風間圦前迄堀長三百八拾三間 一 風間(圦)尻より往還石橋迄 七拾弐間 一 往還石橋より古川堤上口迄 弐百八拾八間 一 古川堤上り口石橋より下新井馬洗場石橋迄百五拾弐間 一 上曾根土橋より落口迄 六拾四間 〆堀長サ千六拾八間(約1.942km)有之申侯、右之役人者共算ニ当年 ハ〆九百五拾九間当有之、清水右金次当
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