静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸匠治、1900年 - 1976年8月10日)は、活動弁士。
来歴
群馬県出身。大正時代に石井春波の弟子となり、弁士の技術を学ぶ。
デビュー後は、浅草の電気館や帝国館といった松竹系の直営館に出演。帝国館では現代劇の主席弁士を勤めている。主に松竹蒲田撮影所の作品を解説し、美声と名調子で観客(特に女性)を魅了した。
映画がトーキーの時代を迎えた昭和10年(1935年)には、弁士・楽士の全員解雇を通知する松竹側に対し、争議委員長として交渉するも決裂[2]。3月19日から28日にかけてストライキを指揮した[注釈 1]。その後は、主に歌謡曲のナレーションを務めた。
昭和51年(1976年)8月10日、喉頭癌のため死亡。満76歳没。
逸話
- 西村小楽天によると、背が低く容姿もあまりよくなかった。美声とのギャップからか、「闇の業平」と揶揄する同業者もいたという。
- 上記ストライキ中の3月27日には、ストの支援をしていた活動家2名が松竹専務・城戸四郎の邸宅へ日本刀を持って乱入する事件が起きた。この時、静田は「乱入を使嗾した」容疑で、他の争議委員17名とともに警察に一時身柄を拘束されている[5]。
静田のナレーションが収録されている主な作品
注釈
- ^ 28日の交渉で、退職手当などについて労使双方が合意に達し、ストは終結[3]。松竹に在籍する弁士・楽士の全員解雇はそのまま実施されることとなり、結果的には会社側の勝利で終わった。
出典
- ^ 「松竹争議団遂に総罷業に入る 会社はトーキーで対抗」、読売新聞1935年3月20日付夕刊(19日発行)、2頁
- ^ 「松竹争議 円満解決」、読売新聞1935年3月29日付朝刊、7頁
- ^ 「城戸松竹専務邸で抜刀二壮士暴る トーキー争議テロ化」、読売新聞1935年3月28日付夕刊(27日発行)、2頁
参考文献
- 西村小楽天著『私は昭和の語り職人』エイプリル・ミュージック、1978年。
- 無声映画鑑賞会編・マツダ映画社監修 編『活動弁士 無声映画と珠玉の話芸』アーバン・コネクションズ、2001年。ISBN 4900849502。