青木 稔基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
京都府京都市上京区 |
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生年月日 |
(1934-09-07) 1934年9月7日 |
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没年月日 |
(2014-12-30) 2014年12月30日(80歳没) |
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身長 体重 |
176 cm 69 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1955年 |
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初出場 |
1955年 |
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最終出場 |
1960年 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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監督歴 |
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青木 稔(あおき みのる、1934年9月7日 - 2014年12月30日[1] )は、京都府京都市上京区出身[2]のプロ野球選手。1958年から1960年までの登録名は青木 孝夫(あおき たかお)。
来歴・人物
同志社高校では、2年生の1951年に夏の甲子園府予選準決勝に進出するが山城高に敗退。その後も府予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は同志社大学へ進学。1年生時の1953年秋季リーグで6勝を挙げ、その後も大学同期の国松彰・伊香輝男らと中心投手として活躍した。
しかし、大学を2年で中退して国松とともに1955年に読売ジャイアンツに入団[2]。同年7月に初先発を果たすと、10月には2日連続で救援勝利を挙げるなどシーズンでは2勝を記録する。翌1956年は中継ぎで起用されるが伸び悩み、その後は登板機会に恵まれなかった。1957年限りで巨人を自由契約となる[3]。
1958年に近鉄パールスに移籍したが一軍登板は無く、翌1959年には広島カープに移籍した。広島でも1960年の1試合のみの登板に終わり、同年限りで引退。
2000年4月から2002年5月まで社会人野球クラブチーム『オール神戸阿部クラブ』の監督を務めた[2]。
2014年12月30日に亡くなっていたことが日本プロ野球OBクラブの機関誌『OB NEWS』Vol.65にて公表された[1]。80歳没。
詳細情報
年度別投手成績
背番号
- 26 (1955年 - 1957年)
- 49 (1958年)
- 29 (1959年 - 1960年)
登録名
- 青木 稔 (あおき みのる、1955年 - 1957年)
- 青木 孝夫 (あおき たかお、1958年 - 1960年)
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク