隆武帝(りゅうぶてい)は、南明の第2代皇帝。諱は聿鍵(いつけん)。廟号は紹宗(しょうそう)。日本では在位中の元号隆武を取って隆武帝と呼ぶのが一般的。明の洪武帝朱元璋の第23子の唐定王朱桱の八世の孫にあたる(下記系図参照)。
生涯
隆武帝の父の朱器墭は唐端王朱碩熿の嫡出長男であった。万暦22年(1594年)、朱器墭は世子とされた。しかしその後、朱碩熿は寵愛する側室の子の朱器塽を世子として育てようと考え、長男を虐待した。万暦30年4月5日(1602年5月25日)、朱器墭の妻の毛氏は宦官の家で朱聿鍵を産んだ。朱碩熿はこの孫を愛さなかったが、朱碩熿の母の太妃魏氏(万暦41年(1613年)薨去)は曾孫を愛し、世話をした。その後、朱器墭は唇部腫瘤という理由[1]をつけて監禁され、崇禎2年(1629年)、朱器塽に毒殺された。この事件は混乱を生み、朱碩熿も恐れ、気乗りのしないまま孫の朱聿鍵が家督相続人に立てられた。1630年、朱碩熿も死去した。
唐王家内での長い争いの後、崇禎5年(1632年)に朱聿鍵は祖父の爵位を相続して唐王となった。崇禎7年(1634年)、父の仇討として、叔父の朱器塽を自ら手にかけて殺害した。崇禎9年(1636年)冬、北方情勢の危急に際し、朱聿鍵は武装した家臣を統率して北京へ上り、崇禎帝を支援しようとした。しかし崇禎帝は猜疑心が強く、これを権力奪取の企てと疑った。翌年春に朱聿鍵は「無断用兵罪」と「弑叔罪」を問われ、庶人に落とされ、鳳陽高墻(皇族の監獄)に収監された。獄中で、朱聿鍵は度重なる体罰によって一度は危篤状態に陥った。妻の曾氏と数人の役人が崇禎帝に上書したが、崇禎帝在世中の8年間は効果がなかった。
崇禎17年(1644年)、崇禎帝が自殺し、弘光帝が南京で即位すると恩赦を受け、広西平楽に移されることになった。移送中に弘光帝が清軍に囚われたとの報を受けた朱聿鍵は、福州の地で鄭芝龍・黄道周らに推されて帝位に即き、隆武の元号を立てた。同族である桂林の靖江王朱亨嘉(朱若極(石濤)の父)が「監国」と称すると、両広総督の丁魁楚に命じてこれを討伐させて、これを捕らえて福州に連行させて王位を剥奪した挙句に、獄死させた。
鄭芝龍の子の鄭成功が隆武帝に初めて謁見した時、隆武帝はその容貌と聡明さを気に入って、「朕に公主(娘)がいないのが残念である」と言った。隆武帝が公主の代わりに国姓の朱姓を授けた(しかし鄭成功は固辞した)ことから、鄭成功は「国姓爺」の異名で呼ばれることになった。
隆武2年(1646年)、清軍が福州を攻撃すると汀州に逃れたが、清の李成棟の軍によって捕らえられた。連行途中、皇后曾氏と10人ほどの宦官が入水自殺した。その後、清軍の警備は強化されて逃走の機会はなくなり、隆武帝は翌月に崩御した。享年45。絶食による自殺とされる。
宗室
- 妻妾
- 孝毅襄皇后曾氏 - 1646年自殺。
- 12人の妃嬪
- 某氏、某氏 − 汀州で自殺。
- 沈氏、毛氏 − 汀州で隆武帝と共に捕虜になった。
- 某氏 − 汀州で隆武帝を守って清軍と格闘し、戦死した。
- 劉氏 − 汀州へ逃難時、既に妊娠していた。しかし以後、詳情の記載がない。
- 子女
- 荘敬太子 朱琳源(1646年生没) - 母は孝毅襄皇后曾氏。兎唇を持つ。隆武2年6月1日(1646年7月13日)に生まれ、同年8月、混乱の中に死去した。
系図
太祖洪武帝 朱元璋 | | 1唐定王 朱桱 | | 2唐靖王 朱瓊烴 | | | | | | | | | |
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| | | | | | | | | 3唐憲王 朱瓊炟 | | 4唐荘王 朱芝址 | | 5唐成王 朱弥鍗 | |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | 文城恭靖王 朱弥鉗 | | |
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| | 6唐敬王 朱宇温 | | 7唐順王 朱宙栐 | | 8唐端王 朱碩熿 | | 朱器墭 | | 9,11唐王・隆武帝 朱聿鍵 |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | 10唐愍王 朱聿鏼 |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | 12唐王・紹武帝 朱聿𨮁 |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | 13唐王 朱聿鍔 |
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- 『明史』巻118(列伝第6 諸王3 唐王伝)および巻120(列伝第8 諸王5 桂王伝)より作成。
伝記資料
脚注
- ^ 朱器墭の母方の祖父からの遺伝による兎唇であったと思われる。朱琳源も兎唇を持つ。隆武帝の肖像画を見ると、軽微な口唇裂の痕跡もある。