門葉(もんよう)とは、一般的に血縁関係がある一族を指す。後に、擬似的な血縁関係で編成された家臣団での格式を指す名称としても使用される。鎌倉幕府においては源頼朝(鎌倉殿)の一門としての処遇を受けた者をいう。御門葉(ごもんよう)とも。
概要
『吾妻鏡』には門葉について下記の記事がある。
板垣三郎兼信が飛脚、去る夜鎌倉に到来す。今日、判官代邦通、彼の使者が口状を披露す。その趣、貴命に応じ平家を追討せん為に西海に赴く〔去る八日出京すと云々〕所なり。而るに適々御門葉に列し、一方の追討使を奉り、本懐を為すべきの処、実平この手に相具しながら、格別の仰せを蒙ると称し、事に於いて所談を加えず。剰え西海の雑務と云い、軍士の手分けと云い、兼信が口入を交えず、独り相計るべしの由、 頻りに結構す。始終此の如くたらば、頗る勇心を失うべし。西国に居住の間、諸事兼信上司たるべしの旨、御一行を賜わり、眉目に当てんと欲すと云々。この事あえて許容無し。門葉に依るべからず。家人に依るべからず。…
— 『吾妻鏡』元暦元年三月十七日条
これは平家追討において、甲斐源氏の板垣兼信が源氏一門でありながら坂東平氏の土肥実平より下位に置かれることへの不満を述べたものである。頼朝は兼信の要求を一蹴しているが、門葉(源氏一族)と家人(御家人)という概念があったことが分かる。
豊後守季光と中条右馬允家長、喧嘩を起こす。すでに合戦に及ばんと欲するの間、両方の縁者等馳せ集まる。仍って和田左衛門尉義盛を遣わし和平せしめらる。家長に於いては、前右衛門尉知家に仰せて出仕を止めらる。養子たるが故なり。季光に至りては営中に召し、御家人等に対し闘戦し生涯を失わんと擬するは、甚だ穏便の儀に非ざるの由、直に諷詞を加えらると云々。(中略)この事、季光は由緒有りて門葉に准えらるるの間、頗る宿徳の思いを住す。家長は壮年の身として知家が養子たり。威権に誇り無礼を現すに依って、季光相咎むと云々。
— 『吾妻鏡』建久六年正月八日条
これは毛呂季光と中条家長が些細な理由で喧嘩を起こした記事である。ここで季光は門葉に準じると記されており、当時の幕府では季光の上位に門葉という存在があったことがうかがえる。季光は文治2年(1186年)、頼朝の推挙で豊後守に任じられている。豊後は関東御分国(頼朝の知行国)だった。
『吾妻鏡』文治5年(1189年)7月19日条は、頼朝が軍勢を率いて鎌倉から奥州へ発向した記事である。御供の輩として御家人の名が列挙されているが、季光より前に名があるのは下記の9名である。
9名はいずれも清和源氏で国司の地位にあり、様々な儀式の場で頼朝の御後に列している。頼朝は律令制の公卿(三位以上)、諸大夫(四位、五位)、侍(六位)の位階秩序を、将軍家(公卿)、門葉・准門葉(諸大夫)、一般御家人(侍)に当てはめることで一門と御家人の格差を明確化し、幕府の身分秩序の構築を意図していたとする見解もある[1]。また、元暦・文治年間の幕府席次において門葉筆頭ともいえる座を占めている平賀義信は、源義朝・頼朝親子への忠勤を認められたためと推定されている[2]。
一族組織が脆弱だった頼朝は門葉が将軍家の藩屏となることを期待したと思われるが、彼らは逆に頼朝の権力を脅かす存在でもあった。門葉は建久年間になると次々に消えて、頼朝没年には平賀義信・大内惟義の親子を残すのみとなった。正治2年(1200年)4月1日、北条時政が遠江守に任じられたことで、御家人に対する門葉の優位は失われた。頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏(大内氏)は承久の乱で北条氏との抗争に敗れ没落することになる。
門葉の中で足利氏だけは北条氏と縁戚関係を結び続け、また得宗との政治的対立を避けることで勢力を維持した。宝治2年(1248年)、足利義氏が結城朝光との争論において足利氏は「右大将家の御氏族」であると主張したのに対して、幕府は足利氏と結城氏は対等とする判断を下しているが(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)[3]、鎌倉後期になっても足利氏の幕府内における序列は総じて高いものであり、足利貞氏は執権北条貞時から源氏嫡流と認められていたとする見解もある[4]。
脚注
関連項目