長谷川 正憲(はせがわ まさのり、1890年(明治23年)11月3日 - 1964年(昭和39年)7月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。
経歴
1890年(明治23年)に富山県で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第35期卒業。1932年(昭和8年)6月に北京駐屯歩兵隊長に就任し、1936年(昭和11年)3月28日に第3師団司令部附となり、名古屋医科大学に配属され、8月1日に陸軍歩兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)7月に歩兵第47連隊長(第1軍・第6師団・歩兵第11旅団)に就任し、日中戦争に出動。保定会戦では千軍台で激戦を繰り広げ、石家荘会戦にも参加。その後第10軍隷下に編入され、杭州湾上陸作戦、南京攻略戦、広州での掃討戦と連戦し、武漢作戦にも参加した。
1938年(昭和13年)9月に留守第14師団司令部附となり、1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級した。同年9月12日に支那派遣軍総司令部附となり、11月7日に新設された独立混成第17旅団(第13軍)の旅団長に11月15日に就任。上海とその周辺の警備に任じつつ、蘇北作戦などに参加した。1941年(昭和16年)12月に樺太混成旅団長(北部軍)に就任し、上敷香で国境守備に任じた。1942年(昭和17年)12月1日に待命、12月28日に予備役に編入された。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
- 勲章等
脚注
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献