船は8月27日に赤尾木に入港した。時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(むらしゅくしゃ、フランシスコ(葡: Francisco)の音訳)、喜利志多佗孟太(きりしただもうた、クリスタ・ダ・モータ(葡: Crista da Mota)の音訳)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った[1]。
一方、アントーニオ・ガルヴァン(ポルトガル語版)の著した『新旧世界発見記(葡: Tratado dos Descobrimentos, antigos e modernos)』には、『鉄炮記』の記述の前年にあたる1542年に、フランシスコ(・ゼイモート)と(アントーニオ・)ダ・モータ(『鉄炮記』におけるクリスタは女性名であり、ミドルネームだった蓋然性が高い)が日本に漂着したと書かれている。
No anno de 1542 achandose Diogo de freytas no Reyno de Syam na cidade Dodra capitam de hũ nauio, lhe fogiram tres Portugueses em hũ junco q' hia pera a China, chamauãse Antonio da mota, Francisco zeimoto, & Antonio pexoto. Hindo se caminho p'a tomar porto na cidade de Liampo, q' está em trinta & tãtos graos daltura, lhe deu tal tormenta aa popa, q' os apartou da terra, & em poucos dias ao Leuãte viram hũa ylha em trinta & dous graos, a q' chamam os Japoes, que parecem ser aquelas Sipangas de que tanto falam as escripturas, & suas riquezas: & assi estas tambem tem ouro, & muyta prata, & outras riquezas.
西暦1542年、シャム王国のドドラ(現アユタヤ)に停泊していた船の船長・ディオーゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し、ジャンク船で中国へと出航した。3人の名はアントーニオ・ダ・モータ(ポルトガル語版)、フランシスコ・ゼイモート(ポルトガル語版)とアントーニオ・ペショートで、北緯30度あたりにある寧波に進路を取った。しかし、嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ、北緯32度で東に島を見つけた。その名は日本であり、まさに物語で語られる富貴の島シパング(Sipangu)そのものであるらしく、金銀と豪華なものが溢れていた。 — António Galvão[3]