金策市(キムチェクし)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道南部にある都市。旧称は城津(ソンジン/성진)。北朝鮮における製鉄業の中心地の一つである。
市名は、当地生まれの朝鮮人民軍司令官・金策(1951年に死去)にちなみ、1953年に改名された。
市の南側は日本海に面している。中心市街は、半円を描く城津湾の西に面している。気候は海に面しているために内陸ほどは寒くない。夏は比較的涼しい。
22洞・22里を管轄する。
古代には粛慎、挹婁、濊貊、沃沮、靺鞨、夫余など多くの民族が活動する地域だった。高句麗が勢力を強めた結果としてこれらの民族を統合し編入した。その後、高句麗が668年に滅亡した後は、唐の支配下に入り、靺鞨族によって渤海が建国されると東京龍原府の管轄に属するようになった。
女真族の活動した時期を経て、13世紀に元の領土となった。14世紀後半、元の滅亡にともなってこの地は高麗の統治下に入り、吉州の管轄下となった。1398年、朝鮮王朝によって城津鎮が設置された。
1898年、咸鏡北道吉州郡の城津鎮周辺および咸鏡南道端川郡の一部をあわせ、城津郡が設置された。1899年4月、開港にともない城津府が置かれたが、その後吉州郡に統合され、行政区域としては安定しなかった。1903年に吉州郡から城津郡が分割・再設置、1906年に城津府に昇格した。城津府は1910年10月1日に城津郡に降格された[3]。1910年時点で、鶴上・鶴南・鶴中・鶴西・鶴東の5面が存在した。1920年、港や駅を中心とする地域に城津面が新設された。
日本統治下において、1930年代後半以降重工業化が進められ、1937年には日本高周波重工業城津製鉄所が操業を開始した。1939年には城津面が邑に昇格、1943年には城津邑が城津府に昇格した。城津府が成立して郡を離脱するのにともない、旧城津郡は鶴城郡に改名した。
第二次世界大戦後、城津府は城津市に改名した。
朝鮮戦争では城津も大きな被害を受けた。1951年1月、この地で生まれた朝鮮人民軍司令官・金策が死去すると、1953年にその栄誉を記念し、鶴城郡が金策郡に、城津市が金策市に改名された。
1952年に行われた行政区画再編により、金策郡の6里が金策市に編入、7里が咸鏡南道広泉郡(現・端川市の一部)に編入された。再編された金策郡は、鶴東面・鶴中面・鶴西面の全域と、鶴城面の一部(14里)で、金策邑は旧鶴城面鶴城里に置かれた(1邑23里)。なお、金策郡の邑はその後1953年から1954年にかけての一時期、臨溟里に移転している。
1961年、金策郡は金策市に編入された。
2002年現在、22洞22里が存在する。
この節の出典[4]
日本統治時代から重工業が発展し、城津製鋼所(旧:日本高周波重工業 城津製鉄所)などの大工場なども多い。製鉄業は同国随一であり、とくに特殊鋼の生産でも同国最大の都市である。また、水産業は東海岸最大を誇る。農業は果樹類の生産が多い。
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