金岡 嶠(かなおか たかし、1890年(明治23年)3月3日 - 1971年(昭和46年)7月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。
経歴
佐賀県出身。1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校第25期卒業。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校第34期卒業。
1937年(昭和12年)3月、野戦重砲兵第8連隊長を経て、同年8月、陸軍砲兵大佐に進む。同年9月、独立野戦重砲兵第8連隊長に転じ、支那事変に出動した。
1938年(昭和13年)7月に陸軍重砲兵学校研究部主事、1939年(昭和14年)7月に関東軍砲兵司令部附、同年11月に陸軍重砲兵学校幹事を経て、1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進む。
ついで同年8月、近衛砲兵団長、1941年(昭和16年)7月、大阪防空隊司令官、同年11月、中部防空旅団長(中部軍)、1942年(昭和17年)3月、砲兵監部附、1943年(昭和18年)3月、東部防空旅団長を歴任し、同年10月、陸軍中将に進級。1944年(昭和19年)6月、東部高射砲集団長を経て、同年12月に高射第1師団長に補され、東京の防空の任についた。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[8]。
脚注
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
参考文献