酒泉 竹軒(さかいずみ ちくけん)は江戸時代の儒学者。筑前国福岡出身。水戸藩彰考館総裁。酒泉氏始祖。『大日本史』編纂者の一人。書道、篆刻、中国語にも通じた。
経歴
遊学
承応3年(1654年)筑前国警固に浪人堤正直の2男1女の子として生まれた。6歳で父と死別し、母栗野氏に育てられた。9歳で平田某に書を学んだ。
寛文10年(1670年)江戸に出て、前橋藩酒井忠清・藤堂和泉守等と接触した。
延宝5年(1677年)頃長崎に出て唐通事本木家に滞在し、病気の治療を受けつつ、周麟に書道を学んで同門今井元昌と交流し、清人に中国語・唐様書道を学び、唐通事彭城仁左衛門・仁右衛門、深見玄岱等と交流した。
数年後京都に上り、貞享2年(1685年)4月9日小河茂介成材の紹介で伊藤仁斎に入門したが、師は多忙で、生活の見通しも立たなかったため、貞享3年(1686年)5月今井元昌と相談して江戸に出て、壬生藩三浦明敬に出仕した。村松藩堀直利、鳥羽藩土井利益からも誘いがあったが、小藩のため断った。
水戸藩出仕
元禄2年(1689年)今井元昌が水戸藩に出仕したのに続き、元禄4年(1691年)9月15日佐々宗淳の推薦で水戸藩彰考館右筆となり、『大日本史』編纂に加わり、六国史を講読した。元禄8年(1695年)12月26日大番組に入った。
元禄9年(1696年)9月5日から11月5日まで西山荘で徳川光圀に近侍し、『洪武正韻』研究を命じられ、『洪武聚分韻』編纂に着手した。
元禄11年(1698年)1月25日水戸彰考館設置に伴い水戸に赴任し、元禄12年(1699年)7月28日総裁となった。元禄13年(1700年)12月1日小納戸役。同月光圀が死去し、元禄14年(1701年)『義公行実』編纂に関わった。元禄15年(1702年)11月通称を彦左衛門から彦大夫に改めた。
宝永4年(1707年)2月28日江戸彰考館総裁となり、宝永5年(1708年)1月11日小姓頭を兼ねた。宝永7年(1710年)9月徳川綱吉死去を受けて常憲院霊廟の銅灯を手配した。正徳元年(1711年)朝鮮通信使の応接に関わった。正徳5年(1715年)『大日本史』本紀・列伝が完成すると、志類と本紀・列伝続編(北朝分)の編纂を建白したが、打越樸斎・神代鶴洞・藤田東湖等の反対に遭った。
死去
享保2年(1717年)1月16日徳川綱条への講経を終えた直後、中風で倒れ、左半身が麻痺した。数日後小石川馬場火事で自宅を焼け出され、中里村に避難した。
享保3年(1718年)5月25日小石川壱岐坂の自邸千秋室で死去し、27日伝通院末見樹院に葬られた。享保9年(1724年)11月養子輝により墓が建てられた。
大正4年(1915年)、正五位を追贈された[23]。
著書
- 「江都聞見録」 - 寛文10年(1670年)江戸に出た時の見聞記。
- 『竹軒遺集』 – 享保年間成立[25]。
- 『竹軒外集』 - 享保年間成立[26]。
- 『竹軒遺稿』 - 明治24年(1891年)酒泉彦太郎編。
- 「言志集」 – 元禄元年(1688年)成立[28]。
- 「象奎知源録」 - 長崎時代の作。漢字の書体の由来を検討する。
- 「明語要録」 - 長崎時代の作。中国語の単語帳。
- 「助語考」 - 長崎時代の作。中国語の助辞の用例集。
- 「達而和名」 - 京都時代の作。中国語の単語を検討して、日本語での用例と比較する。
- 「巳年中留書」 - 正徳3年(1713年)成立。
- 「犬吠集」[31]
- 「切磋集」[32]
- 「二十二社奉幣考」[33]
『大日本史』では列伝のうち平敦盛・経盛、平清盛、伊東祐親・祐清・祐経、平将門・藤原純友分を自撰した。
門人
家族
先祖は肥前国松浦郡出身で、源姓堤氏を称した。
- 曽祖父:堤大隅守 – 幼名は泉次郎。肥後国に移った。
- 祖父:堤大隅
- 父:堤徳左衛門正直 – 号は恵山・宗春。筑前国に移った。
- 母:栗野氏 – 元禄10年(1697年)病没。
- 弟:堤藤三郎勝久 – 祖母の実家池田氏を継いだ。
- 先妻:馬瀬氏
- 後妻:吉川氏
- 子:石(?)松 – 9歳で没。
- 娘3人 - 皆夭折した。
- 養子:酒泉文蔵輝 – 弟勝久の子。
脚注
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.36
- ^ 竹軒遺集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 竹軒外集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 言志集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 犬吠集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 切磋集 – 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 二十二社奉幣考 – 日本古典籍総合目録データベース
参考文献
外部リンク