鄭 士琦(てい しき)は清末民初の北洋系軍人で、北京政府、安徽派に属した。字は雲卿。
事跡
安徽陸軍随営学堂を卒業し、済南の北洋第5鎮の隊官(中隊長)、管帯(大隊長)を歴任した。
中華民国成立後の1912年(民国元年9月、部隊単位の名称変更により同部隊は中央陸軍第5師に改称され、翌1913年(民国2年)、陸軍第5師砲兵第5団団長に任命される。同年7月の二次革命(第二革命)では、徐州で決起した冷遹(中国語版)の討袁軍第3師討伐のため、雨の中を歩隊一個営、砲隊一個連を率いて江蘇省との省境の微山県韓荘鎮(中国語版)の利国駅(中国語版)で激戦を繰り広げる。やがて同じく第5師の潘鴻鈞(中国語版)の第10旅第19団、張勲の武衛前軍も到着し、討袁軍を退けた[1][2]。
1914年(民国3年)8月、第5師第10旅旅長に昇進した。1919年(民国8年)5月、署陸軍第2師二等参謀官に任命され、後に第5師師長に昇進した。
1923年(民国12年)1月、済威将軍の位を授与される。同年10月、山東督軍(後に督理、督弁)に任命された。1925年(民国14年)、奉天派の張宗昌の圧力に屈し、4月に安徽督軍に転任した。しかし実際には就任することが出来ず、8月に下野した。
以後、天津に寓居し、1935年(民国24年)病没。享年63。
脚注
- ^ 微山縣志,山东人民出版社,1997年,第882页
- ^ 历史年鉴: 一部记录了100年来历史洗礼的经典收藏丛书. 年鉴, 1849-1950(13),吉林文史出版社,2006年,第24页
参考文献