遠藤 (藤沢市)
遠藤(えんどう)は、神奈川県藤沢市の大字。古くからの集落と湘南ライフタウンとして開発が進むエリアが共存する地域である。 地理藤沢市の北西部に位置し、相模野台地の南端部を占める。域内東部は相模原面と呼ばれる広大な平坦面に属し、北西部はそれよりも古い堆積面で比較的緩やかな起伏の高座丘陵(高座台地)の一部に属する。両堆積面の境界付近は小出川および引地川支流の小糸川が樹枝状に穿つ谷戸の谷頭部に当たり、古くからの集落が分布する。また谷戸は水田として利用されている。台地上の平坦面は畑として利用されてきたが、東南部には工業団地が、また南部では大規模な宅地造成が行われている(湘南ライフタウン)。 河川地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、遠藤字菖蒲沢境3634番13の地点で14万8000円/m2となっている[5]。 歴史縄文時代の遺構が多数見つかっている。相模国高座郡に属し、戦国期は遠藤郷が置かれた。1590年の小田原征伐では、豊臣秀吉が当地を掌握しようとした[6]。 江戸時代には遠藤村と称し、1633年(寛永10年)は旗本岡部氏・堀氏の相給、1697年(元禄10年)は旗本中根氏・堀氏の相給、1767年(明和4年)は旗本堀氏・本多氏・杉浦氏の3給だった。 遠藤村は藤沢宿定助郷を務め、1788年(天明8年)から1793年(寛政5年)までの間、困窮による助郷免除願により一部が休役となり、1851年(嘉永4年)から1860年(万延元年)までは他の定助郷の困窮から新たに代助郷が加えられた[7]。 1827年(文政10年)の関東取締出役による改革組合村設立の際は藤沢宿寄場に属した。 民業は、農業が主で余業で養蚕のほか、冬季に男は薪炭を産し、女は紡織をした[8]。 江戸時代末期には、寺子屋の郷学琢成(たくせい)学舎(後の藤沢市立秋葉台小学校)が開かれた。 地名の由来『皇国地誌』(明治初年)が紹介する伝承によれば、1177年-1180年頃(治承年間)に、遠藤盛遠(文覚の俗名)の采地であったことから[8]。 沿革
世帯数と人口2023年(令和5年)9月1日現在(藤沢市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[17]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通鉄道当地を通る鉄道路線はない。最寄駅は、小田急江ノ島線湘南台駅となる。 バス
道路施設
その他日本郵便関連項目脚注
外部リンク
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