進徳館(しんとくかん)とは、長野県伊那市高遠町高遠城内に設けられた高遠藩の藩校である。城址敷地内に現存する藩校建造物は珍しく[1]、1973年(昭和48年)国の史跡に指定された(史跡「高遠城跡」の一部として指定)。
創設の経緯
昌平黌に学んだ高遠藩儒中村元起の進言を受けて、第8代藩主内藤頼直が、万延元年(1860年)閏3月24日、城内三ノ丸旧内藤蔵人の屋敷に学問所 進徳館を開いた。易経の「君子進徳修業、忠信所以進徳也(君子は徳に進み業を修む。忠信は徳を進むる所以なり)」に因む。
文武総裁に岡野小平治、師範役に海野幸成、中村元起を任命した。頼直は創立に際し「実学専一ニ心掛クベキ」と諭達した。藩士の子弟は8歳から15歳まで必ず出席させ、これを幼年部とし、他に中年部を置いた。学科目は漢学、筆学、習礼、武術、兵学であった。後に和学、算額が加えられ、西洋式兵式教練も行われた。明治4年(1872) 廃藩置県によって高遠県学校となり、明治6年(1873)に廃校となり、存続期間はわずか13年間であったが、500名を超える人材を輩出した。明治6年(1873) 学制発布により各町村に学校が設立されるなか、筑摩県の教師の大部分は進徳館の出身者であったといわれる。正確な数はわからないものの、その数300名を越え、信州教育の原点の一つとなったと言われる。
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進徳館に関わる人物
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師範
- 岡野小平治(おかの こへいじ)・文武総裁
- 中村元起(なかむら もとき)(1820~1884)・師範
- 海野幸績(うんの こうせき)(1842~1911)・師範
- 高橋白山(たかはし はくざん) (1836~1904)・助教
- 長尾無墨(ながお むぼく) (1832~1894)大助教[10]
生徒
- 伊沢修二(いさわ しゅうじ)(1851~1917)・後に助教
- 内田文皐(うちだ ぶんこう) (1842~1910)
- 後藤杉蔵(ごとう すぎぞう)(1850~1912)
- 青山勝謙(あおやま しょうけん)(1854~1904)
- 久保譲次(くぼ じょうじ)[11](1846~?)
- 中村弥六(なかむら やろく)(1854~1929)
- 高橋作衛(たかはし さくえ)(1867~1920)
- 神尾光臣(かみお みつお)(1855~1927)
- 安東貞美(あんどう さだよし)(1853~1932)
- 小野光景(おの みつかげ)(1845~1919)
- 伊沢信三郎(いさわ しんざぶろう)(1856~1925)
- 河野通万(こうの みちかず)(1852~1887)
- 馬場凌冬(ばば りょうとう) (1842~1902)
- 伊藤瀬平(いとう せへい) (1864~1923)
脚注
参考文献
- 『長野県史 通史編 第6巻 近世3』
- 大石学編『近世藩制・藩校大事典』吉川弘文館、2006年。
関連項目
外部リンク