中村 元起(なかむら もとおき、文政3年6月2日[1](1820年7月11日)- 明治17年(1884年)4月30日[1])は幕末の儒者。明治時代初期の教育者。号は黒水、半狂。通称は忠蔵、郁之丞[1]。幼名は竜治郎[1]、字は喜卿。中村弥六は次男。
生涯
信濃国高遠藩藩医兼藩儒の中村元恒(中倧と号す)の次男として[1]、伊那郡大出村[1](現長野県上伊那郡箕輪町)に生まれる。弘化2年(1845年)に家学を継ぎ仕官する[1]。また私塾を開いて子弟を教育する[1]。嘉永2年(1849年)に複数の藩士が開墾事業を計画したことが藩主の逆鱗に触れ、連座して黒河内村(現伊那市長谷)に追放されるが、同6年(1853年)に赦免される[1]。
安政元年(1854年)江戸に遊学して昌平黌で林復斎に学び[1]、林家の塾頭となった[1]。帰藩後の同4年(1857年)に藩主内藤頼直に藩校進徳館の創設を進言し[1]、万延元年(1860年)の開闢と同時に教授となり、儒学の他、皇漢学、軍学、和洋算学、化学、物理学などを講義した。幕末には藩論を勤王に取りまとめ、新政府への帰順を周旋した。
明治維新後は筑摩県に出仕し[1]学校掛となり、筑摩県学(後の開智学校)の創設に尽力した。後に太政官に出仕し[1]、三等編修官に任ぜられ、修史と地誌の編述に従事した。また父業を継ぎ、郷土地誌の『蕗原拾葉』の続編を作成した。享年65。谷中の天王寺に葬られた。大正4年(1915年)11月10日に従五位を遺贈された[1][2]。
著作
- 「経書考」10巻
- 「学易」1巻
- 「武林拾葉」2巻
- 「蕗原拾葉」続編
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「中村黒水」『信濃人物誌』310-311頁。
- ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.38
出典
- 佐藤寅太郎『信濃人物志』文正社、1922年。
- 村沢武夫『信濃人物誌』信濃人物誌刊行会、1965年。
- 『日本人名大辞典』講談社、2001年。