近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年(明治9年)5月4日 - 1944年(昭和19年)4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。
露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる[1]。
1876年、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。慶應義塾に入るも父の急逝により2ヶ月で退学し、帰郷、一年余り家業に就く。その間、村井弦斎・尾崎紅葉・泉鏡花等の軟文学に親しんだ。 1896年、小説家を志し、9月再度上京し、国民英学会で英語を、漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)にて漢学を学んだ。1898年、東京専門学校(後の早稲田大学)文学部史学科に入学。卒業後、坪内逍遥の紹介で、博文館に入社するも5ヶ月で退社。その後、東京専門学校出版部に入る。1904年、中央公論の記者となるが、ここも7ヶ月で退社している。
文壇デビューは、在学中の1901年、読売新聞紙上の文学合評「月曜文学」第一回、「鏡花の註文帳を評す」である。最初の小説は『食後』(1907年)。 作家としての地位を確立したのは、『別れたる妻に送る手紙』や『黒髪』を代表とする、いわゆる情痴文学である。1916年、赤木桁平から「遊蕩文学」の作家の一人として攻撃された。赤木は秋江の作品を「低俗たる乞食文学」と評した[2]。
晩年は両目とも失明した[3][4][5]。1944年4月23日、老衰と栄養失調のため東京都杉並区の自宅で死去。戒名は策雅秋江居士[6]。
筆名の近松秋江は、近松門左衛門を慕うことから近松、また秋の絵を好むことから秋江としたといわれる。また、はじめは徳田秋江を使用していたが、徳田秋声と紛らわしいため改名した。
東京専門学校時代に出会った正宗白鳥との交友は有名である。
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