近山 金次 (ちかやま きんじ、1907年 4月12日 - 1975年 11月6日 )は、日本 の歴史学者 (古代ローマ史 ・中世精神史 )、教育者 。学位 は文学博士 (慶應義塾大学 ・1950年 )。慶應義塾大学名誉教授 。
慶應義塾大学予科 教員、慶應義塾大学文学部 教授 、慶應義塾 中等部 部長(第3代)、清泉女子大学 文学部教授などを歴任した。
概要
東京府 東京市 出身の西洋史学者である。慶應義塾大学 文学部 を卒業すると、同大学の予科 の教員を経て、文学部で教授 を務めた。また、慶應義塾 中等部 の部長も兼務した。その後、清泉女子大学 に転じ、文学部の教授を務めた。また、翻訳者としてガイウス・ユリウス・カエサル の『ガリア戦記 』を日本に紹介したことでも知られている[ 1] 。
来歴
生い立ち
1907年 (明治 40年)4月12日 、東京府 東京市 にて生まれた。近山の出生地は、従前は東京府芝区 であったが[ 註釈 1] 、1889年 (明治22年)5月1日 の東京市発足に伴い、その市域に組み入れられたものである。同じく東京市に所在する慶應義塾大学 に進学し、文学部 の史学科 にて歴史学 を学んだ。1932年 (昭和 7年)、慶應義塾大学を卒業した。なお、後年になって博士論文 「封建国家理念の生成とその展開」[ 2] を執筆しており、1950年 (昭和25年)4月12日 に慶應義塾大学から文学博士 の学位 を授与されている[ 2] [ 3] 。
歴史学者として
大学卒業後は、母校である慶應義塾大学に採用され、予科 にて教員として勤務した。1941年 (昭和16年)12月8日 に太平洋戦争 が勃発するも、戦火の中を生き延びる。戦争が終結する1945年 (昭和20年)、慶應義塾大学の文学部にて教授 に就任した。その間、慶應義塾 の要職を歴任している。たとえば、慶應義塾中等部 において、1956年 (昭和31年)4月1日 に第2代部長 に就任した松本正夫 が[ 4] 、慶應義塾の常任理事 に就くため同年7月22日 に急遽退任することになった[ 4] 。この事態を受け、近山が同年7月23日 に第3代部長に就任した[ 4] 。1960年 (昭和35年)7月31日 まで同職を兼務し[ 4] 、後任の村山光一 に引き継いだ[ 4] 。なお、1955年 (昭和30年)にヨーロッパ に留学している。慶應義塾大学を退職すると、1973年 (昭和48年)に名誉教授 の称号 が贈られた。清泉女子大学 に転じると、文学部の教授に就任した。1975年 (昭和50年)11月6日 、死去した。
研究
1678年 に刊行された『ガリア戦記 』(C. Iulii Caesaris quae exstant , 1678 .)[ 5]
専門は歴史学 であり、西洋史 の中でも特に古代ローマ史や中世精神史といった分野の研究 に従事した。古代 ガリア の政治制度についての研究に取り組んでおり、1932年(昭和7年)に発表した論文 「古代ガリヤに於ける政治制度と其の統一的氣運の變遷に就て」などが知られている[ 6] 。また、ガイウス・ユリウス・カエサル とアウルス・ヒルティウス が著した『ガリア戦記 』を翻訳し[ 1] 、日本に紹介した。『ガリア戦記』の日本語版として近山の訳書は広く知られており、同様によく知られている言語学者 の國原吉之助 の訳に比べると「古いが、読みやすい」[ 7] とされている。評論家 の小林秀雄 も近山の訳書に親しんだ一人であり、初めて近山の訳書を読んだ際に「ジュリアス・シイザア に『ガリア戦記』といふものがあるのは承知してゐたが、最近、近山金次氏の翻訳が出たので、初めて、この有名な戦記が通読出来た。少し許り読み進むと、もう一切を忘れ、一気呵成に読み了へた。それほど面白かつた。近頃、珍しく理想的な文学鑑賞をした」[ 8] と評している。
また、近山の博士論文の審査は、歴史学者の大類伸 、同じく歴史学者の間崎万里 、および、文学者 の厨川文夫 が担当した[ 9] 。主査や副査らは、近山の論文の特色について「一般に、『封建 』の概念は『分裂』を意味することが多く、カルメット (フランス語版 ) の意見の如きは、その代表的なものだが、著者はそれに對して、『分裂』よりも『統一』に重きを置き、莊園 的な分裂の間より起つた、國家的統一を求める傾向を『封建』だとしている」[ 10] と指摘したうえで、「我が國の學徒にとつて至難とされている西洋中世史料の驅使や、文獻批判に於て示した著者の努力は、その獨自の見解と共に、中世史研究の上に少からぬ示唆と貢獻とを與へるものである」[ 9] と評し、博士号 の授与を認めている[ 9] 。
家族・親族
梁瀬自動車 を創業した梁瀬長太郎 の娘と結婚したため[ 11] 、ヤナセ 社長を務めた梁瀬次郎 は義弟にあたる[ 11] 。また、エイブル 社長やギガプライズ 社長を務めた梁瀬泰孝 は義大甥 であるが、のちに次郎と泰孝が養子縁組 したため義養甥でもある。なお、下記以外にも、実業家の漆山一 は義姉の夫にあたり[ 12] 、実業家の尾澤金藏 は義妹の夫にあたり[ 11] [ 13] [ 14] 、鹿島建設 社長を務めた鹿島昭一 は義姪の夫にあたり、ヤナセ社長を務めた稲山孝英 は義姪の夫にあたるなど、著名な係累縁者が多数存在するが、ここでは近山の親族 に該当する著名人のみを列挙した。
系譜
赤地に太字が本人である。
係累縁者が多いため、近山金次の親族 に該当する著名人のみ氏名を記載した。
梁瀬泰孝は梁瀬次郎の二女の息子であり、次郎の養子となった。
略歴
著作
単著
共著
編纂
翻訳
その他
主要な論文
近山金次稿「古代ガリヤに於ける政治制度と其の統一的氣運の變遷に就て」『史学』11巻2号、三田史学会、1932年 7月 、51-134頁。ISSN 03869334
近山金次稿「西洋史研究第一輯(東北帝國大學西洋史研究會編輯)」『史学』11巻3号、三田史学会、1932年10月 、171-172頁。ISSN 03869334
近山金次稿「タキトゥス・ゲルマーニア(田中秀央・泉井久之助共著、刀江書院發行)」『史学』11巻4号、三田史学会、1933年 2月 、176-178頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ガリヤ戰記の製作年代に就いて」『史学』12巻1号、三田史学会、1933年4月 、89-104頁。ISSN 03869334
近山金次稿「東洋古代史(橋本増吉著、平凡社刊行)」『史学』13巻1号、三田史学会、1934年 4月 、169-170頁。ISSN 03869334
近山金次稿「文化(東北帝大文科會編、岩波書店刊行)」『史学』13巻1号、三田史学会、1934年4月、177頁。ISSN 03869334
近山金次稿「チベリウス帝政論攷」『史学』13巻2号、三田史学会、1934年8月 、29-54頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ヴォルフ民族文化史(間崎万里譯、刀江書院發行)」『史学』13巻2号、三田史学会、1934年8月、162-163頁。ISSN 03869334
近山金次稿「西洋史概説(内藤智秀著、教育研究會發行)」『史学』14巻1号、三田史学会、1935年 4月 、172頁。ISSN 03869334
近山金次稿「西洋史研究第八輯(マキヤヴェリ號)」『史学』14巻4号、三田史学会、1936年 3月 、169頁。ISSN 03869334
近山金次稿「章華社版、『世界文化史』(近代篇)」『史学』15巻2号、三田史学会、1936年7月 、188頁。ISSN 03869334
近山金次稿「アリストテレス國家學(青木巖譯、第一書房刊)」『史学』16巻1号、三田史学会、1937年 4月 、162-163頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ローマ皇帝トラヤヌスの東方政策に就て」『史学』16巻2号、三田史学会、1937年6月 、15-32頁。ISSN 03869334
近山金次稿「エトルリヤ研究の現状」『史学』16巻3号、三田史学会、1937年11月 、135-148頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ハンザ研究の現状」『史学』16巻4号、三田史学会、1938年 4月 、147-173頁。ISSN 03869334
近山金次稿「Alfons Dopsch -- The Economic and Social Foundations of European Civilization (1937, Kegan Paul, London)」『史学』16巻4号、三田史学会、1938年4月、212-213頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ローマ皇帝ユスチニヤヌスの東方經營に就て」『史学』18巻2号、三田史学会、1939年 11月 、73-122頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ヘロドトス著、青木巖譯、歴史(ヒストリアイ)上卷」『史学』19巻4号、三田史学会、1941年 3月 、142頁。ISSN 03869334
近山金次稿「ローマ文學史(ワイト・ダッフ、岩崎良三譯)」『史学』21巻1号、三田史学会、1942年 9月 、122頁。ISSN 03869334
近山金次稿「トゥーキューディデース、『歴史』(青木巖譯、生活社刊)」『史学』21巻2号、三田史学会、1943年 2月 、133頁。ISSN 03869334
近山金次稿「カルタゴ撲滅論考」『史学』21巻3号、三田史学会、1943年6月 、85-115頁。ISSN 03869334
近山金次稿「アウグスティヌス『神国論』の一節――聖人の心にうつる童貞女の悲しみ」『世紀』1号、世紀編集室、1949年 4月 、7-18頁。
近山金次稿「叙任権争に対する一考察(要旨)」『人文』3巻2号、人文科学委員会、1949年9月 、88-90頁。
近山金次稿「アンブロシウスと貧しき人々」『世紀』10号、世紀編集室、1950年 1月 、29-38頁。
近山金次稿「西洋近世初期の奴隷と教会」『史學』24巻4号、三田史学会、1951年 、1-25頁。ISSN 03869334
近山金次稿「増田四郎著『西洋近世世界の成立』」『史学』25巻1号、三田史学会、1951年、120-127頁。ISSN 03869334
近山金次稿「大ローマの没落と教会」『世紀』25号、世紀編集室、1951年、4-14頁。
近山金次稿「アウグスティヌスの戦争論」『世紀』30号、世紀編集室、1951年12月 、8-20頁。
近山金次稿「アウグステイヌスの国家観に対する史的考察」『史學』25巻3号、三田史学会、1952年 、322-351頁。ISSN 03869334
近山金次稿「聖ルイ〔ルイ9世〕のこども」『世紀』37号、世紀編集室、1952年8月 、4-13頁。
近山金次稿「初代教会百年の迫害」『ソフィア』1巻3号、上智大学 、1952年9月 、1-17頁。ISSN 04896432
近山金次稿「アイルランドの牧者パトリキウス」『世紀』41号、世紀編集室、1953年 、4-13頁。
近山金次稿「タキトウス著、泉井久之助・田中秀央訳『ゲルマーニア』」『図書 』47号、岩波書店 、1953年、24-25頁。
近山金次稿「封建君主論」『西洋史学』20号、日本西洋史学会、1953年12月 、589-624頁。ISSN 03869253
近山金次稿「アウグスティヌスと祖国の危機」『ソフィア――西洋文化ならびに東西文化交流の研究』2巻4号、上智大学、1953年12月15日 、20-41頁。ISSN 04896432
近山金次稿「宗教改革研究の困難」『世紀』58号、世紀編集室、1954年 、21-26頁。
近山金次稿「ダニエル・ロップスの史書を読む」『世紀』51号、世紀編集室、1954年、33-36頁。
近山金次稿「ダニエル・ロップスの史書を読む」『世紀』57号、世紀編集室、1954年、33-36頁。
近山金次稿「エルサレムもうで」『世紀』69号、世紀編集室、1955年 7月 。
門下生
脚注
註釈
出典
参考文献