赤田城(あかたじょう)は、新潟県刈羽郡刈羽村大字赤田地域にあった日本の城(山城)。戦国時代の山城で上杉家の奉行人を務め、代々下野守を踏襲した越後斎藤氏の居城である[1]。
概要
越後斎藤氏以前は赤田氏の居城であったが、二代目の赤田源太告ら赤田一族を滅ぼした、越後斎藤氏の城となった[2]。上杉謙信死後の御館の乱で斎藤朝信は上杉景勝方に付いたことから、この城は与板城などと共に、景勝方にとっての北条城攻めなどの重要な拠点となった[2]。
標高169mに有る山頂の主郭には斎藤下野守朝信城跡の碑が建てられていて、その場所は一段高くなっていることから、かつては櫓が建っていたことが想定される[2]。主郭の北側に大堀切を挟んで赤田古城と呼ばれる一帯があり、地元では赤田氏時代の城と語られているが、縄張りや構造などから見て、赤田城と同じく戦国時代の城跡で、赤田城の北側の守備を担う郭群として一帯となって機能していたと考えられる[1][2]。
脚注
- ^ a b 平井.etc p.137-138
- ^ a b c d 甲信越の名城 p84-87
参考文献
関連項目
外部リンク