諸葛 質(しょかつ しつ、生没年不詳)は、中国三国時代の人物である諸葛亮の孫、諸葛瞻の子とされる人物。
清の張澍『諸葛忠武侯文集』故事諸葛篇が引く『雑記』に以下の説話がある。
263年、蜀漢の滅亡に際して、劉禅の子の洮陽王劉恂が魏に降るのを拒み、関索・霍弋・呂凱らと共に南方に逃れた。そして諸葛質を使者として南蛮王孟虬に保護を求める。孟虬は母の祝融夫人と相談した上で一行を迎え入れ、劉恂らは南中の永昌郡(現在の雲南省西部)に隠退した。
『三国志』後主伝が引く『蜀紀』に拠れば、劉恂は271年に劉禅が亡くなるとその跡を継いでおり、劉禅らと共に洛陽に移っていたものと考えられる。また同じく後主伝では、洮陽王ではなく新興王に封じられている。
『三国志』諸葛亮伝に拠れば、264年に諸葛京と諸葛顕(諸葛喬の孫)たちが河東に移住したとある。
関索・祝融夫人・孟虬は『三国志』をはじめとする正史類には見られない。また『三国志』呂凱伝に拠れば、呂凱は263年以前に亡くなっている。
『諸葛忠武侯文集』諸葛篇にはこの他にも、諸葛懐(諸葛亮の三男)・諸葛果(諸葛亮の娘)・諸葛望(諸葛均の子)らに関する佚文が引かれている。
家系