藤原 雅教(ふじわら の まさのり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、参議・藤原家政の長男。官位は正三位・中納言。
経歴
永久6年(1118年)に従五位下に叙爵、以後各国の受領や民部少輔/権大輔等を歴任する。また、鳥羽法皇の下で院庁別当を務めた。この功績により、仁平3年(1153年)に従四位下・刑部卿に叙任され、久寿元年(1154年)には右中弁、久寿3年(1156年)には左中弁に蔵人頭を兼ねた。
保元元年(1156年)7月に発生した保元の乱においては、乱の勃発に先立ち後白河天皇からの命令を受け、藤原忠実・頼長父子が全国の荘園からの武士の動員を禁ずる綸旨を、奏者として全国の国司に発給する役目を果たした。乱の後の論功によって、同年9月に参議兼左大弁に任じられ公卿に列した。
その後も、保元2年(1157年)従三位、保元3年(1158年)正三位・権中納言、永暦元年(1160年)中納言と急速に昇進するが、長寛元年(1163年)中納言を致仕し、永万元年(1165年)8月14日に出家した。
系譜