藤原京

藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見る
藤原宮 大極殿院閤門跡
列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。

藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代都城[1]壬申の乱により即位した天武天皇の計画により日本史上で初めて風の条坊制が用いられた。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京[注釈 1](あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている[2]。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので[注釈 2][2]、当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。

概要

藤原宮 大極殿跡

『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である[3]

天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、その皇后でもあった後継の持統天皇4年(690年)を境に再開され[注釈 3]、4年後の694年飛鳥浄御原宮倭京[注釈 4]から宮を遷し[注釈 5]藤原京は成立した[4]。 以来、宮には持統・文武元明の三代にわたって居住した。

それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる[5]。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ[5]、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。 藤原京に居住した人口は、京域が不確定なため諸説あるが、小澤毅による推定では4 - 5万人と見られている。その多くは貴人や官人とその関係者や、夫役として徴集された人々、百姓だった[2]。自給自足できる本拠地から切り離された彼らは、食料や生活物資を外界に依存する日本初の都市生活者となった[6]

708年和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。 藤原宮の遺構からは、平城遷都が決まる時期に至っても朝堂を囲む回廊区画の工事が続いていたことを示す木簡が出土しており、藤原京が未完成のまま放棄された可能性を示唆している[7]。 その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。

藤原京の範囲・構造

藤原京 朱雀大路跡
北方に藤原宮跡を望む。後背は耳成山

藤原京は岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、12条8坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた[4]。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた[2]。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに倭京から独立した空間として認識されたとみられている[8]

特色として、以降に建設される、北に宮殿や政庁を配した北朝形式の太宰府、平城京や平安京とは異なり、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配している。これは天武天皇のへの対抗意識として、敢えて長安城や大興城に倣わず『周礼』冬官考工記にある理想的な都城造りを基に設計されたと考えられている[6]条坊制を採用し、東西5.3km(20坊)、南北4.8km(18条)の範囲内に碁盤目状に街路を配したとされる[1]

藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があり、これを境に東側に左京、西側に右京が置かれた。朱雀大路は、後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の広いものではなく、幅24メートル強(側溝中心間)と非常に狭いものであった。想定される宮都域には「和田廃寺」「田中廃寺」「豊浦寺(向原寺)」の遺構などが確認され、宮都はこのような既存施設との兼ね合いで飛鳥川の南側の朱雀大路や羅城門が整備されなかった[注釈 6]とする説もある[8]

東西を通る京極を除いて縦横9本ずつの大路が計画され、南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方にが存在したことが明らかになっている。大和三山にかかる部分は条坊が省略されたと考えられるが、右京の四条付近にあった古墳群は、神武陵綏靖陵を除いてこのときに削平されてしまったと見られている。また広大な宮都の南東が高く北西が低い地形のまま造営されており、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたとみられる。なお藤原京には外的防衛の機能はなく、都を囲む城壁や正門が存在しない。

藤原宮

藤原宮の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。東側から見る

藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地ではまず全域に格子状の街路を建設し、そののちに宮城の位置と範囲を決定してその分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。

藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さので囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ4、50cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿基壇は東西約52m、南北約27m[10])などの建物は礎石建築がなされ、中国風に日本の宮殿建築でははじめてを葺いた建築がなされていた。

藤原宮焼亡説

扶桑略記』に、藤原京と大官大寺が和銅4年(711年)に焼失したという記事がある。これが事実だとすると、遷都の翌年に焼けたことになる。しかし、藤原京跡での発掘で、火災の痕跡は発見されていない。一方、大官大寺は金堂回廊で焼け落ちた痕跡が見つかった。遺物から8世紀ごろのものとみられる。

藤原京の遺構

木簡約1200点が出土している。金石文や、後年になり日本書紀など潤色が疑われる史料とは異なり、木簡は現場の律令の実践で使用された潤色の必要性のなかった史料とされる。このため、大宝律令の内容の復元も期待されている。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており書誌にはない史料を含んでいる。

郡評論争に決着を付けた木簡

藤原宮跡出土木簡(複製)
「上捄国阿波評松里」の表記が見られる。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

「郡評論争」とは、大化の改新の記述の中に、政治改革の方針の中に、地方を「」、「」、「」を単位として組織する制度の施行が含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して、疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見された木簡である。1967年に藤原宮跡から発見された木簡には、「己亥年十月上捄国阿波評松里」とあり、「己亥年」は文武天皇3年(699年)、「上捄国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「」であったことを明らかにした。一方、701年(大宝元年)を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、改新の詔によってではなく、大宝律令の施行後にその規定に従って、「評」が「郡」に変更されたということが立証された[7]

呪符木簡

災いの原因となる邪気や悪鬼を防いだり、駆逐するための呪文符号を書いた木札を呪符木簡というが、7世紀に出現する。7世紀の例は全国で8例あるが、そのうち6例は藤原宮跡から出土している[11]

門号

藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。それぞれの号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。ただ、まだ実際に発掘調査が行われたのは朱雀門など一部にすぎず、早い調査が待たれる。

現状

発掘調査現場

奈良県橿原市高殿町藤原宮大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。

1968年昭和43年)9月13日歴史的風土特別保存地区[12]に指定されている。公共施設である橿原市斎場と橿原市昆虫館等の建設のために道路が作られて、香具山(歴史的風土特別保存地区)と分断されることになる。2005年平成17年)、大和三山は国の名勝に指定された。

2007年(平成19年)1月、日本政府は世界遺産登録の前提となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を登録した。

藤原宮跡をより多くの人々に認知ししてもらうことを目的に、2006年(平成18年)度より地元5町(醍醐町、木之本町、縄手町、別所町、高殿町)で構成された藤原宮跡整備協力委員会の協力により藤原宮跡花園植栽事業が行われ[13]、春に醍醐池北側の約20,000 平方メートルに約250万本の菜の花[14]、夏に、醍醐池西側の約7,000 平方メートルに約100万本のキバナコスモス[15]、大極殿跡南東の約3,000 平方メートルに大賀蓮、唐招提寺蓮などの11種類のハス[16]、秋に大極殿跡南側の約30,000 平方メートルに約300万本のコスモス[17]が植栽されている。

白鳳文化

この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇貴族中心の文化でもあった。大官大寺(大安寺、高市大寺)や薬師寺などが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。

異説・俗説

大宰府は、藤原京に先立って日本列島で最初に条坊制をしいた都城であり、日本古代史以外の「世界史」に倣えば、都城の出現を以って国家が確立したとみなすため、九州王朝(倭国)を日本最初の王朝とする主張がなされた(九州王朝説参照)。第一期大宰府政庁の条坊築造時期については、7世紀末との説が発表されたが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示されている[18][19][20]。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、藤原京と同時期あるいはさらに古くなる可能性が出てくる。

阿波説

大和朝廷の前身としての邪馬台国奈良盆地箸墓古墳ホケノ山古墳のルーツとなる墳墓[21]が発掘され、吉野ヶ里遺跡の数十倍規模の弥生時代の大集落遺跡群[22]があり、魏志倭人伝に「其山丹有」と記述されている、3世紀の水銀朱辰砂(硫化水銀))採掘遺跡[23]が全国唯一発掘され、鉄器製作のための国内最古級の鍛冶炉を備えた竪穴建物[24]が発掘された阿波で成立し、大和朝廷は710年(和銅3年)に奈良平城京に遷都するまで阿波にあった、と解する阿波説では、藤原宮は二つ在って[25]、最初の藤原宮の比定地は阿波(徳島県吉野川市鴨島町飯尾の呉郷団地南の山際、飯尾天神社辺り)であったとする。その痕跡は飯尾天神社の境内には、藤原宮を造った棟梁と伝えられる「藤原役の君」の尊像が安置されていること、藤氏神社(飯尾天神社の麓に鎮座)という天皇の宮を造ったとの伝承を持つ「工藤氏」の氏神を祀る神社が比定地近くに鎮座していること、比定地近くに「国一八幡宮」(鴨島町山路)が鎮座し、神社前の由緒書きには、「ここは昔慶雲の宮と呼ばれていた」と書かれていることである。また、藤原宮の藤乃井は、四国霊場第11番札所藤井寺境内に池(湧水)があって現在水量はほとんどないものの大昔の面影を留め、藤棚には初夏には見事に咲き誇り、また境内を流れる小川の上流は藤の自生林として知られ、藤の自生林の間を流れる小川ゆえに藤乃井の名が付けられたとしている。

さらに万葉集にある藤原宮の役民(えのたみ)の作れる歌『やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原がうへに 食(を)す國を 見し給はむと 都宮は 高知らさむと 神(かむ)ながら 思ほすなべに 天地(あめつち)も 寄りてあれこそ石走る 淡海(あふみ)の國の 衣手の田上山(たなかみやま)の 眞木さく檜の嬬手を もののふの八十氏河(やそうじがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると さわく御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの水に浮きゐて わが作る 日の御門に 知らぬ國 寄し巨勢道(こせぢ)より わが國は 常世にならむ圖(ふみ)負へる 神しき亀も 新代と 泉の河に 持ち越せる 眞木の嬬手を 百足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらならし』(万葉集巻一50番)を『天照す日神子命以来の我国の天皇が、安らけく居ます大宮を藤原に造るにあたり、我々が田上山の桧を切り出し八十川の水筋を利用、泉谷の入り江まで多くの民々が手助けして運び、この泉の入江で数多くの筏にしつらえ対岸の鴨島の入江まで引きのぼり、この木材をもって藤原宮を作ったのだ』と誇った役の人々の宮ぼめ歌と解釈し、①「荒栲の藤原がうへに」とはこの地が旧麻植郡内で日継ぎの神事に皇祖の御衣としてこの藤原宮の後方の山上貢村から持ち来るあらたえを枕詞として使ったもの。 ②「食す國」とは、五穀豊穣の象徴大宜都比売を国名とした阿波のこと ③「淡海の國の衣手の田上山」の「淡海(あふみ)」とは「阿波海(あわうみ)」の転化で、鳴門から南にかけての阿波の海のこと。通説は「淡海(あふみ)」を「近江」とし「淡海の海」を琵琶湖のこととしているが誤り。本居宣長も「あふみ」は「阿波宇美が切(つづ)ま」ったものと説いている。田上山とは伊太乃郡田上邑(現・徳島県鳴門市大麻町の旧郷名)の山で現在の大麻山のこと ④「檜」は、大麻町桧は地名に付くほど檜の産地 ⑤「もののふの八十氏河」とは、吉野川北岸の田上邑を含めた伊太乃郡山下郷大津の辺りから上流の上板町泉谷川辺りまでの、クモの巣のように水路の入り交じる所 ⑥「鴨じも」とは、鴨島が上下島に分かれているので、鴨の下島のこと ⑦「神しい亀」とは、速吸門鳴門海峡)で海人の大人(うし)宇豆彦が亀に乗って現れて神武軍を案内したという神武東征[26]の伝説にもとり歌われたもの ⑧「泉の河」とは板野郡上板町に流れる泉谷川 ⑨「筏に作り」など大河吉野川は如何様にも運搬できるとしている。一方、通説の説く琵琶湖近くの滋賀の田上山から木材を筏に組んで、琵琶湖から宇治川へ、そして木津川へ運び、木津からは陸路や運河などで大和三山に囲まれた奈良藤原京(橿原市高殿町)まで運んだという檜の運搬経路は、あまりに非合理にして非現実的な経路であり、檜の産地は奈良藤原京の近辺にも多くあるとしている[27][28]

持統朝には34回もの吉野宮への行幸の記録が記載されており、奈良県で吉野宮跡といわれているところは吉野郡吉野町とされているが、明日香橿原市に在る奈良藤原宮までは、地図上の直線距離で十数キロになり、しかも標高500メートル以上の山が連なっている。歩いて最短のコースをとったとしても20キロ余りの急峻な坂道を通らなければならず、かくまでして吉野に行かしめたものは何であったのか。また、『瀧の上の 三舟の山に ゐる雲の 常にかあらんと わが思はなくに』(万葉集巻三242)や『み吉野の 瀧の白浪 知らねども かたりし継げば いにしへ思ほゆ』(同巻三313)と詠まれているように、吉野宮の近くには滝がなければならないし、柿本人麻呂の歌(同巻一36、37、38、39)に詠まれているように、吉野川は朝に夕に舟を並べて競い合って渡るほど川幅が広くなければならない。奈良県吉野郡吉野町の「宮滝」は明日香の浄御原宮や橿原市の藤原宮と同じ吉野川北岸にあり、吉野川を渡る必要がない。一方、阿波説における吉野宮の推定地は三好市三野町加茂野宮字王地で、その北側裏山奥には「龍頭滝」と「金剛滝」の二瀑があり、柿本人麻呂の歌の『やすみしし わご大君 の聞し食す 天の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並べて 朝川渡り 船競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らず 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも』(万葉集巻一36番)の「水激(たぎ)つ滝の都」を正に彷彿とさせ、吉野川は持統天皇に随行した宮廷人が舟を浮かべて遊び、朝夕は舟を並べて対岸まで競うほど川幅は広く水量も豊かであり、三好市三野町加茂野宮の吉野宮は吉野川北岸にあり、吉野川市鴨島町の藤原宮や小松島市の飛鳥浄御原宮[29]は吉野川の南側にあり、吉野川を渡る必要がある。

藤原不比等は、帝国の文明と軍事的圧力を目の当たりにして、列島全域の律令制統治が不可欠と考え、691年(持統6年)10月、海をまたいで新益京(奈良県橿原市)の地鎮祭を行ったが、持統天皇は不比等の度重なる奈良への遷都の説得にも決心がつかず、倭(阿波国)に留まりたいと、692年5月23日に藤原宮(鴨島町)で地鎮祭を行い、二年後の694年12月6日に飛鳥(徳島県小松島市)から藤原宮(吉野川市鴨島町)へ遷ったとし、これが一度目の藤原宮で、二度目が奈良県橿原市の藤原宮であったとしている。702年(大宝2年)持統天皇が薨去し、喪が明けた704年(慶雲元年)、不比等は半ば中断していた新益京の本格的造営に着手し、宮名も藤原宮と改め造営を始めた。707年(慶雲4年)2月、初めて上級官僚を集めて遷都の議論をさせたが、その4か月後に遷都に乗り気でなかった文武天皇が25歳の若さで薨去、708年2月15日、元明天皇は急ぐ必要はないと反対していたが、不比等に押し切られ、平城への遷都の詔を発し、12月5日、平城宮の地鎮祭を行い、710年3月10日、初めて都を平城に遷した。奈良県橿原市高殿町の藤原宮から奈良市北方の平城京への遷都なら「始遷都于平城」とは表現しないであろうとしている。元明天皇の歌「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」(万葉集78)は藤原宮(吉野川市鴨島町)から奈良平城京へ遷って行く途次、阿波(倭)を離れる直前の長屋の原(現・徳島県板野郡松茂町付近の洲島と推定され、地名の「長原」や長原漁港は「長屋原」が変化したものとみられる)で船を停泊させ歌ったもので、ここからは藤原宮(吉野川市鴨島町)は見えないが古京の飛鳥(小松島市)が見える[30][31]

文化財

特別史跡

  • 藤原宮跡 - 1952年(昭和27年)3月29日指定[32]
1946年(昭和21)11月21日に史跡に指定されたのち、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。また10数度にわたり指定範囲の追加が行われている[32]

交通アクセス

地図

脚注

注釈

  1. ^ 持統天皇6年正月12日692年2月4日)条。
  2. ^ 万葉集』巻第一 和銅3年の題詞に「藤原京」の名が現れるが、後世に付加されたものという説が有力である[2]
  3. ^ 『日本書紀』持統天皇4年10月(690年11月)条「壬申に、高市皇子、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同年12月(691年1月)の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」。持統天皇8年12月(695年1月)条「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」
  4. ^ 藤原京に先立つ倭京については諸説があるが、飛鳥宮周辺の施設を含んで藤原京が建設されたため、まだ飛鳥宮が置かれていた時代に遷宮以前の藤原京に関連する諸施設、諸制度に「京」の名を冠して呼んでいた可能性が指摘されている。
  5. ^ 一説に12月6日694年12月30日)昼前に遷行したとされる。
  6. ^ 『続日本紀』には和銅3年(710年)の朝賀の軍事行進が“朱雀路”で行われたとする記述からも、整備された同一幅の規格を持つ大路を通す意図が希薄であった可能性がある[9]

出典

  1. ^ a b 浅井建爾 2001, p. 142.
  2. ^ a b c d e 千田&金子 2000, pp. 268–286.
  3. ^ 亀田博『日韓古代宮都の研究』(学生社、 2000年) ISBN 4-311-30473-0 pp.134-137.
  4. ^ a b 渡辺 2001, pp. 28–36.
  5. ^ a b 世界大百科事典 第2版『藤原宮』
  6. ^ a b 文化庁 2015, pp. 209–212.
  7. ^ a b 奈良文化財研究所『木簡:古代からの便り』(岩波書店、 2020年) ISBN 978-4-00-025325-3 pp.33-38.
  8. ^ a b 網伸也 2011, pp. 28–35.
  9. ^ 網伸也 2011, pp. 31–32.
  10. ^ "奈良・藤原宮大極殿の基壇の規模判明 奈文研調査"(産経新聞、2016年6月29日記事)。
  11. ^ 奈良国立文化財研究所『飛鳥・藤原宮発掘調査概報 26』奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部,1996年.
  12. ^ 国土交通省・歴史的風土保存区域及び歴史的風土特別保存地区指定状況
  13. ^ 藤原宮跡花園の紹介”. 橿原市 世界遺産登録推進課. 2023年11月4日閲覧。
  14. ^ 菜の花(藤原宮跡花園 春ゾーン)”. 橿原市 世界遺産登録推進課. 2023年11月4日閲覧。
  15. ^ キバナコスモス(藤原宮跡花園 夏ゾーン)”. 橿原市 世界遺産登録推進課. 2023年11月4日閲覧。
  16. ^ ハナハス(藤原宮跡花園 蓮ゾーン)”. 世界遺産登録推進課. 2023年11月4日閲覧。
  17. ^ コスモス(藤原宮跡花園 秋ゾーン)”. 橿原市. 2023年11月4日閲覧。
  18. ^ 井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」(『条里制古代都市研究』Ⅰ、2001年)
  19. ^ 「大宰府の条坊」新説紹介 九歴で史跡発掘50年特別展”. 西日本新聞. 2018年5月3日閲覧。
  20. ^ 井上信正「大宰府条坊の成立」(『 考古学ジャーナル』 588号、2009年)
  21. ^ 徳島県鳴門市大麻町萩原1号墓(3世紀第1四葉期築造の後円部直径約18メートルの前方後円墳、石囲木槨積石墳丘墓)、萩原2号墓(国内最古、2世紀末から3世紀初頭の築造の後円部直径約20メートルの前方後円墳、石囲木槨積石墳丘墓)、鳴門市大麻町の西山谷2号墳(3世紀半ばの築造で竪穴式石室を持つ直径約20メートルの円墳)
  22. ^ 庄遺跡、南庄遺跡、鮎喰遺跡、名東遺跡、矢野遺跡、石井城ノ内遺跡、井ノ元遺跡、清成遺跡など
  23. ^ 徳島県阿南市水井町の若杉山遺跡
  24. ^ 徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡など
  25. ^ 日本書紀では、持統8年(694年)12月6日に藤原宮に遷居せられ、9日には百官の朝拝を受けられた、と記されており、同11年(697年)8月1日には文武天皇に譲位された。その後、他に皇居を移した記録は見当たらないが、慶雲元年(704年)11月20日、初めて藤原宮の地を定む、と記されている。
  26. ^ 阿波説では、神武東征の南九州から北九州、中国地方を経由して大阪湾へ、そこから和歌山県を回って吉野川から奈良へ入るという経路は記紀成立時に挿入された創作とし、神武東征は阿波吉野川流域の覇権争いで、吉野川南岸の神武天皇の勢力が吉野川北岸の饒速日命の勢力を鎮撫する事件としている。神武軍の参謀を務めた宇豆彦は宇志彦とも呼ばれ、鳴門市大麻町大谷に鎮座する宇志比古神社で祀られており、その北側にある西山谷2号墳は宇豆彦の墓とみられている。神社はその遙拝所。
  27. ^ 藤井榮『甦る皇都阿波への旅』
  28. ^ 笹田孝至『皇都ヤマトは阿波だった』サンロータス研究所2024年、pp.308-324
  29. ^ 阿波説では、第34代舒明天皇から第41代持統天皇までの飛鳥の京は徳島県小松島市。天武天皇と持統天皇の飛鳥浄御原宮の推定地は小松島市大林町本村。小松島市大林町には「あすか」と呼ばれていたという伝承が残っており、今も飛鳥神社(現日吉神社)が鎮座し、秋祭りに「飛鳥神社」の幟が立つ。徳島藩の地誌である『阿波志』には「飛鳥祠 大林村に在り又日吉祠天満祠蛭子祠牛頭祠八幡祠あり……」と記載されている。舒明天皇飛鳥岡本宮の推定地は小松島市中田町千代ヶ原、すぐ北側には日峯山(標高191.6m)がある。この日峯山からは、「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし國そ 蜻蛉島 大和の國は」という舒明天皇の国見の歌そのままに、国原(徳島平野)も海原(紀伊水道)も見晴らすことができ、今も変わらずカモメの飛ぶ様をみることができる。後世に小松島市側の山頂に日峰神社が創建され、日峯山と呼ばれるようになったが、昔は籠山の標識が立っており、また徳島藩寛永年間の文書には「勝浦郡内籠野山並大神子…」、宝暦6年(1756年)の小浜家文書に「籠山」「籠野山」とみえることから、「籠」は元々「香具」からの転化であり、「かごやま」または「かぐやま」と呼ばれていたとみられる。また海岸沿いには「大神子」「小神子」の地名もある。皇極天皇飛鳥板蓋宮の推定地は小松島市田野町芝田、推古天皇小墾田宮徳島市北田宮斉明天皇後飛鳥岡本宮の推定地は岡本宮の西隣。因みに天智天皇淡海大津宮の推定地は鳴門市撫養町木津応神天皇難波大隅宮の推定地は香川県さぬき市津田町、このあたりは『和名抄』に全国唯一「讃岐国寒川郡難波郷」とあるとおり古代の難波の地、兄媛を乗せた船が出航するのを高殿から眺めながら応神天皇が詠んだ歌「淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び よろしき島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」とあるように、淡路島小豆島が二つ並んで見えなければならないが、通説の比定地である大阪市東淀川区大道南からでは、淡路島と小豆島が二つ並んで見ることはできない。仁徳天皇難波高津宮の推定地はさぬき市津田町(雨滝山北麓の御座田)、あるいは香川県高松市元山町。応神天皇の軽島明宮の推定地は徳島県阿波市市場町市場、その跡に応神天皇の三皇子を祀る若宮皇大神宮が鎮座。若宮皇大神宮参道の奈良坂から犬墓村境目大坂峠を越え、難波郷に通じる街道が古代の主要街道、難波・奈良街道
  30. ^ 藤井榮『甦る皇都阿波への旅』
  31. ^ 笹田孝至『皇都ヤマトは阿波だった』サンロータス研究所2024年、pp.308-324
  32. ^ a b 藤原宮跡 / 史跡名勝天然記念物”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2023年11月4日閲覧。
  33. ^ かしはらしコミュニティバスのご案内”. 橿原市公式ホームページ(かしはらプラス). 2020年5月28日閲覧。

参考文献

  • 網伸也『平安京造営と古代律令国家』塙書房、2011年、28-35頁。ISBN 9784827312447 
  • 浅井建爾『道と路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日、142頁。ISBN 4-534-03315-X 
  • 木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』(中公新書、2003年) ISBN 4-12-101681-5
  • 田中琢編『古都発掘』(岩波新書、1996年) ISBN 4-00-430468-7
  • 林部 均『飛鳥の宮と藤原京 よみがえる古代王宮』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2008年) ISBN 978-4-642-05649-6
  • 八木 充『研究史 飛鳥藤原京』(吉川弘文館、1996年) ISBN 4-642-07128-8
  • 千田稔、金子裕之『飛鳥・藤原京の謎を掘る』(第2刷)文英堂、2000年。ISBN 4-578-12958-6 
  • 文化庁 編『日本発掘!:ここまでわかった日本の歴史』朝日新聞出版、2015年。ISBN 978-4-02-263030-8 
  • 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』講談社〈日本の歴史〉、2001年。ISBN 4-06-268904-9 

関連項目

外部リンク

先代
飛鳥宮飛鳥浄御原宮
日本の首都
694年 - 710年
次代
平城京

座標: 北緯34度30分7秒 東経135度48分26秒 / 北緯34.50194度 東経135.80722度 / 34.50194; 135.80722