蕭 荘(しょう そう)は、南朝梁の第8代(最後の)皇帝。ただし、梁はその前に陳によって簒奪されたため、正史では梁の皇帝とは見なされない。皇帝としての廟号・諡号もなく、史書では王号を採って「永嘉王」と呼ばれる。
生涯
元帝の長男の蕭方等の子。承聖3年(554年)に西魏が江陵を攻撃し、元帝を殺害した際、当時7歳の蕭荘は民家に隠れて難を逃れた。後に王琳に発見され、都の建康へと送られた。叔父の敬帝が即位した後、蕭荘は人質として北斉に送られている。
太平2年(557年)、陳霸先が敬帝から禅譲を受けて陳を建国し、本来の梁は滅亡した(ただし、西魏の傀儡国家である後梁は存続している)。王琳は梁の復興を図り、北斉に対し蕭荘の帰還を要求する。北斉から帰還した蕭荘は郢州において王琳らにより皇帝に擁立され、長江上中流域を拠点と定めた。その後、蕭荘の梁と陳霸先の陳は数度にわたる戦火を交えることとなった。
天啓3年(560年)、梁の王琳と陳の侯瑱が蕪湖で交戦した際、この機に乗じて北周が郢州を攻撃、王琳は敗れ、蕭荘も北斉へと亡命を余儀なくされる。南朝正統を自称する陳に対抗すべく、北斉は蕭荘を梁王に封じ、梁の復興に支援を行うが、北斉の滅亡により実現することはなかった。後に北斉の後主高緯が北周によって殺されたことを聞いた蕭荘は、痛憤のあまり鄴にて死去したという。
- 先代
- 敬帝
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- 梁の第8代皇帝
- 557年 - 560年
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- 次代
- 滅亡
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宋 | |
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斉 | |
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梁 |
- 武帝(502-549)
- (蕭正徳)(548-549)
- 簡文帝(549-551)
- (蕭棟)(551)
- (蕭紀)(552-553)
- 元帝(552-555)
- 敬帝(555)
- (蕭淵明)(555)
- 敬帝(重祚)(555-557)
- (蕭荘)(558-560)
- (西)宣帝(555-562)
- (西)明帝(562-585)
- (西)後主(585-587)
- (蕭銑)(618-621)
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陳 |
- 武帝(557-559)
- 文帝(559-566)
- 廃帝(566-568)
- 宣帝(569-582)
- 後主(582-589)
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