荒尾 直就(あらお なおなり)は、幕末の鳥取藩家老。倉吉荒尾家10代。
生涯
文化12年(1815年)、鳥取藩家老、倉吉領主荒尾為就の嫡男隆就の子として生まれる。隆就の早世により、祖父為就の嫡孫となる。天保5年(1834年)、生母の保珠院が急死する。叔父世就の生母歌浦が、世就を世継とするために、直就とその生母の毒殺を謀ったためとされ、直就は一命を取りとめたものの病身となり、廃嫡される[1]。
安政3年(1856年)、叔父世継の死去により家督相続し、倉吉1万2000石の領主となる。元治元年(1864年)、第一次長州征伐のため、鳥取藩の第一陣を率いて出陣するも病に倒れ、12月に帰国する。慶応元年(1865年)、分家恒就の三男の音三郎(光就)を養子とする。慶応2年(1866年)7月、藩より預かり屋敷に幽閉していた河田景与ら、本圀寺事件の囚人に脱走され、閉門処分となる。11月、脱走に関わった直就の家臣が裁かれ、12月、藩より隠居を命じられ家督を光就に譲る。
明治17年(1885年)、死去。
脚注
- ^ 『鳥取藩史』
参考文献
関連項目