芋川 正令(いもかわ まさのり、生没年不詳)は、江戸時代後期の米沢藩の重臣で侍組分領家の一つ、芋川家当主。通称は伊織、後に縫殿。諱は正令。
経歴
芋川英親の次男として生まれる。次男であるために分家の芋川正利(義太夫)の養子となり、享保12年(1727年)に石高50石の芋川分家を家督相続した。元文元年(1736年)には藩主上杉宗房の小姓となる。
しかし、延享元年(1744年)に本家の嫡子が死去したので君命を受けて本家に戻り、芋川本家の嫡子となる。宝暦元年(1751年)に芋川本家・1000石を相続し、宝暦3年(1753年)に侍頭に就任し、宝暦5年(1755年)には江戸家老、宝暦11年(1761年)には奉行に就任する。
宝暦13年(1763年)に竹俣当綱による権臣森利真の殺害が起こるが、色部照長や千坂高敦とともにこれを支持し、竹俣や色部、千坂らとともに江戸藩邸の藩主上杉重定の下に事後報告を行う。
上杉治憲や竹俣らの改革には反対し、対立の末、明和5年(1768年)に奉行を辞職して隠居した。家督を相続した芋川延親が須田満主とともに安永2年(1773年)に七家騒動を起こしたため正令も連座で押込となる。
参考文献