セルギエフ・ポサードの至聖三者セルギイ大修道院の建造物群 (ロシア )
至聖三者セルギイ大修道院
英名
Architectural Ensemble of the Trinity Sergius Lavra in Sergiev Posad 仏名
Ensemble architectural de la laure de la Trinité-Saint-Serge à Serguiev Posad 登録区分
文化遺産 登録基準
(2),(4) 登録年
1993年 公式サイト
世界遺産センター (英語) 地図
[[画像:|275px|至聖三者聖セルギイ大修道院の位置]] 使用方法 ・表示
至聖三者聖セルギイ大修道院 (しせいさんしゃせいセルギイだいしゅうどういん、ロシア語 : Троице-Сергиева лавра )はロシア にある正教会 の修道院 。モスクワ から北東70キロメートルに位置するセルギエフ・ポサード の町にあるこの修道院は、ロシア正教会 において最も重要な修道院 のひとつであり、その精神的な支柱ともいうべき地位にある。トローイツェ・セルギエヴァ・ラーヴラ とも転写 される。
至聖三者 (ロシア語 : Троице )とは正教会 用語で、他キリスト教教派 でいう三位一体 に当たる。大修道院と訳されるラヴラ (ロシア語 : лавра 、ラーヴラ)とは、修道院の格式の高さを示す修道院の称号。
その諸建築はロシア教会建築の優品として知られる。世界遺産 として登録されており、登録名は、「セルギエフ・ポサードの至聖三者セルギイ大修道院の建築的遺産群 」。
概要
ルブリョフ によるイコン 『至聖三者 』。当初は大修道院内の至聖三者大聖堂 にあったが、現在、原本はトレチャコフ美術館 所蔵。
1345年 、ラドネジの克肖者 聖セルギイ により至聖三者 (三位一体 )を記憶した聖堂が建てられ、これが修道院の起源となる。建立直後からラドネジの聖セルギイの指導下で修道院は大きく発展したが、その後も長い歴史の中で修道院は発展・拡大を続けた。
15世紀 に描かれた、アンドレイ・ルブリョフ による著名なイコン 『至聖三者 』は、当初はこの修道院内の至聖三者大聖堂(トロイツキー大聖堂) に納められていた(現在、原作はトレチャコフ美術館 所蔵)。16世紀 に修道院内最大の大聖堂である生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂) 建立。17世紀 には前駆授洗イオアン 誕生教会や聖セルギイの食堂が建設された。18世紀 にはラヴラ の格が与えられたほか、高さ88メートルをほこる白と青のバロック式鐘楼が建てられ、院内には神学校 が設置された。19世紀 には神学校は神学大学に改組された。
発展を続けた大修道院であったが、20世紀 にロシア革命 が起こりボリシェヴィキ 政権(ソ連 政府)が神品 (正教会の聖職) ・修道士 ・修道女 の虐殺を含む宗教弾圧政策をとる中、大修道院も壊滅的打撃を受けた。修道院は1920年 から1945年 までの間、閉鎖され、多くの文化財が散逸した。ソ連時代後半には若干態度を軟化させたソ連政府の下で、修道生活が細々と行われるようになった。
ソビエト連邦の崩壊 後、大修道院は本格的に復興。1993年 には建造物群が世界遺産 に登録されている。
創設者であるラドネジの聖セルギイのほか、聖マクシム・グレク 、アラスカの聖インノケンティ など著名な聖人 の不朽体 が多く安置され、マカリイ1世 (モスクワ府主教) 、アレクシイ1世 (モスクワ総主教) といった著名な人物の多くの墓がある。
至聖三者セルギイ大修道院の修道院長 は、モスクワおよび全ロシアの総主教 が務める。実務はセルギエフ・パサード駐在の院長代理が務める。
歴史
起源
ラドネジの聖セルギイ のイコン 。周りに聖セルギイの生涯が描かれている。
至聖三者聖セルギイ大修道院または、トローイツェ・セルギエフ修道院は、1345年 ロストフ 出身の修道士 であるラドネジの聖セルギイ によって創設された。聖セルギイがマコヴェッツ丘に至聖三者 (三位一体 )を記念して建立した木造教会 が起源とされる。修道院の初期の発展については、セルギイと彼の弟子達によって記録に残されている。
1355年 セルギイは修道院 の施設として食堂 、台所 、製パン 所などを増築させた。修道院に施設の建築を義務づけた特許状は、以後、セルギイの多くの弟子たちの規範となり、これらの弟子たちはこの特許状に従ってソロヴェツキー修道院 、キリロ・ベロゼルスキー修道院 Kirilov-Belozersky Monastery 、そしてシモノフ修道院 を始めとする修道院を400以上建設した。
ラドネジのセルギイは、中世ロシアにおいて多大な影響力を持ち、ロシア諸侯の紛争にあっては、仲介役として調停者の位置にあった。特にモスクワ大公 ドミートリー・ドンスコイ に対しては支持を与え、1380年 「タタールのくびき 」からロシアが解放される契機となるクリコヴォの戦い において、戦いに赴くドミートリー・ドンスコイに対して祝福を与えている。また、セルギイの下で修道士であったペレスヴェート Peresvet とオスリャービャ Oslyabya の二人を闘いに送った。クリコヴォの戦いの戦端を切ったのは、ペレスヴェートとタタール の戦士チュルベイとの一騎討ち であったと伝えられる。ペレスヴェートはこの勝負で敗北し討ち取られた。1408年 修道院はタタール人の急襲に遭い、火を掛けられた。
聖セルギイの没後
至聖三者大聖堂 (トロイツキー大聖堂、1422年から1423年建設)
1392年 、ラドネジのセルギイは亡くなった。1422年 、 最初の石造りの聖堂 が、コソボの戦い (1389年 )の後この地に逃れていたセルビア人 修道士たちの手によって建立された。この聖堂はセルギイの禁欲と神との一体感という理想が反映されている。そして、至聖三者 を記憶する至聖三者大聖堂 (トロイツキー大聖堂)として献堂され、セルギイの不朽体 (遺体)はこの大聖堂に安置された。1452年[ 1] 、ラドネジのセルギイは聖人 に列せられた。
至聖三者大聖堂のイコノスタス は、中世ロシア最高のイコン 画家である、アンドレイ・ルブリョフ とダニイル・チョールヌィイ (Daniil Chyorny )の手によるフレスコ画 で装飾された。モスクワ大公国 の諸侯らは、至聖三者大聖堂で洗礼 を受けて、感謝の祈りをここで持つことが伝統となっていった。
1476年 , イワン3世 (大帝)は、聖神 聖堂Храм Святого Духа を建設するためプスコフ の建築職人を招聘した。この優雅な建築は、ロシア正教会の教会建築では頂上に鐘楼をいただく古い様式では最古のものの一つである。内陣はつや出しされたタイルが使用されている。16世紀 初期、ヴァシーリー3世 はニコン別館 Nikon annexとセラピオン・テント Serapion tentを建立し、セルギイの弟子の何人かは、そこで過ごした。
セルギエフ・ポサードの発展
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー聖堂) の夜景
1559年 イヴァン雷帝 の命により、26年の歳月をかけて、六支柱式の生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー聖堂) が建設された。生神女就寝大聖堂は、モスクワのクレムリンにある同名の聖堂 を模して、ほぼ同じ形状と大きさで造られている。荘厳なイコノスタス は、16世紀 から18世紀 にかけて作られたもので、シモン・ウシャコフ (Simon Ushakov )の最高傑作である、機密制定の晩餐 のイコン (画像 )がある。1684年 内陣の壁面には、ヤロスラヴリ の職人たちによる、紫と青を基調としたフレスコ画 がある。地下納骨所には、ボリス・ゴドゥノフ とその家族、20世紀の何人かのモスクワ総主教 らが眠っている。
修道院は寄進によってロシアで最も裕福な地主の一つに成長していった。修道院の建物も増築され修道院を周囲から隔絶していた森も伐採されていった。修道院の周囲には門前町が形成され、現在のセルギエフ・ポサード となる。修道院自体は、ロシア史の記録とイコンの貴重な中心となっていった。1547年 修道院の壁のちょうど反対側に聖パラスケワ教会が建設され、聖パラスケワ女子修道院が創設された。現在のヴヴェーデンスカヤ教会である。
大修道院
高さ88メートルの鐘楼。建設当時ロシア一の高層建築であった。
1550年代 になってモスクワ防衛のため同市の周囲には城塞都市が建設されたが、同様に修道院にも北東からの侵入に備え、周囲に12基の塔を備える1.5キロメートルの石壁が作られていった。1608年 から1610年 にかけてポーランド・リトアニア共和国 によって行われた16ヶ月に及ぶトローイッツェ・セールギエフ大修道院の包囲戦 Siege of Troitse-Sergiyeva Lavra にも耐え抜いた。大聖堂門の漏斗孔は、1618年 のヴワディスワフ4世 による包囲戦を退けたことを記念して保存された。こうしてトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ロシアにとって愛国心 や不撓不屈の精神力の代名詞とも言うべき存在になっていった。歴代皇帝 は、戦いの前後に修道院に赴き、聖セルギイのイコンを手に戦場へと馳せるようになった。
17世紀 末まで、若きピョートル大帝 が政敵から2度に渡り修道院に逃れるなどしたこともあり、皇帝や皇后、高位高官を迎えるための多数の施設が建設された。その中には皇帝のための迎賓館 、御成御殿ともいうべきバロック様式 の皇帝宮殿 がある。聖セルギイの食堂(トラーベズナヤ) は中央に柱などの支えが無い、ロシア最大規模510平方メートルを室内空間であった。5つのドームを擁する門上プレッテンチェースカヤ教会 (前駆授洗イオアン 誕生教会)は、1693年 から1699年 にかけて、ストロガノフ家 の寄付によって建設された。その他、17世紀の建築物としては、修道士の居室、ゾシマ・サヴァティー教会を頂く病院などがある。なお、教会建立の際、神聖と見なされる井戸が覆われてしまったが、後に1644年 発見された。
1744年 女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ によってトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ラヴラ (大修道院)の格を与えられた。以後、モスクワ府主教 は大修道院長を兼務するようになる。エリザヴェータ自身もしばしば修道院に行幸したが、こうした女帝の行幸には、女帝と秘密結婚をしたとの噂もあった寵臣アレクセイ・ラズモフスキー (Alexey Razumovsky )伯爵 も同道した。ラズモフスキー伯は、スモレンスク にある聖マリア教会の管理も行っていたが、この教会は最後に大修道院の格を得た教会であり、エリザヴェータお気に入りのもう一つの教会であった。イワン・ミチューリン (Ivan Michurin )とドミトリー・ウフトムスキー (Dmitry Ukhtomsky )設計による高さ88メートルの白と青のバロック式鐘楼 は、当時としてはロシア一の高層建築であった。
ロシア正教会の中心的大修道院として
1890年代に撮影された至聖三者セルギイ大修道院(トローイッツェ・セールギエフ大修道院)の光景
1764年 女帝エカテリーナ2世 により、ロシア国内の修道院が所有する領地と農奴は、国家の所有となった。この改革により、修道院が保持していた政治的、経済的権力基盤は堀崩され、国家による一元支配が貫徹されることとなった。もっとも、19世紀 を通して、至聖三者セルギイ大修道院(トローイツェ・セールギエフ大修道院)は、ロシア正教の修道院中、最も豊かな地位を保った。エカテリーナ2世の聴悔司祭プラトンは、大修道院院長であったということで特別な配慮がなされたことも影響した。
さらに大修道院は、ロシア正教会の一大宗教センターとして発展を遂げた。1742年 に設立された神学校は、1814年 に教会アカデミー(ecclesiastical academy )に改組された。大修道院は写本と正教関係の書籍の一大コレクションを誇った。大修道院が所有する中世の聖具室sacristy は、たくさんの訪問客が訪れた。セルギエフ・ポサドの市内には、大修道院の他にも、いくつか小さな修道院が建立され、その中には哲学者のコンスタンチン・レオンチェフ (Konstantin Leontiev )やヴァシリー・ロザノフ (Vasily Rozanov )などが埋葬されている。
ロシア革命後
ニコライ・ドゥボフスコイ による『至聖三者聖セルギイ大修道院にて』(1917年 、ロシア革命 が起きた年の絵画)
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー聖堂) の内観一部。イコノスタス が見える。(2008年撮影)
1917年 のロシア革命 後、ソビエト政権によって1920年 に大修道院は閉鎖された。ソ連政府により、大修道院の建築物や装飾品、イコンなどは国有化された。1920年ソ連政府は、修道院群を野外文化財博物館に転用する決定をした。しかし、その後も文化財破壊は続き、1930年 大修道院にあった鐘は全て鋳つぶされた。その中には、皇帝の鐘と呼ばれた65トンの重さを誇った鐘もあった。多才な聖職者であったパーヴェル・フロレンスキイ と彼の部下は、ソビエト当局による大修道院の聖器物売却を防ごうとしたが果たせず、多くの貴重な文化遺産が喪われ、他のコレクションへの混入や、ロシア国外に流出する事態を生んだ。
第二次世界大戦 、さらに独ソ戦 が勃発すると対独戦争完遂のため、スターリン は、従来、ソ連共産党が採っていた方針を転換し、国民のロシア・ナショナリズム 、愛国心 の鼓吹のため帝政時代の英雄や宗教的権威を認めた。その一環として1945年 大修道院跡はロシア正教会 に返還された。1946年 4月16日 、生神女就寝大聖堂 において、聖堂を再び奉神礼 に用いるため、成聖 式が行われた。
1960年代 から1970年代 にかけて、主要な文化遺産の復元修理が行われた。大修道院には1983年 までモスクワ主教座 が置かれたが、1983年 には主教座のモスクワのダニーロフ修道院 (Danilov Monastery )への遷座が決定された。以後、大修道院は、ロシア正教会における宗教教育の主要なセンターとして位置づけられた。1993年 至聖三者セルギイ大修道院(トローイッツェ・セールギエフ大修道院)を中心とする建造物群は、ユネスコ によって世界遺産 に登録された。
かつて、天井の高い生神女就寝大聖堂 (ウスペンスキー大聖堂)は冬の奉神礼 に適さなかったため、夏の間だけ用いられた。このためこれを「夏の聖堂」、もう一方の大聖堂である至聖三者大聖堂 を「冬の聖堂」と呼んだ。世界遺産登録後は、生神女就寝大聖堂に床暖房が入り、季節を問わず奉神礼 が行われるようになった。
現在、至聖三者セルギイ大修道院(トローイツェ・セールギエフ大修道院)では、いくつかの聖堂を用いて、朝5時から計4つの聖体礼儀 が行われている。奉神礼 には一般の信者も参加することが出来る。朝5時の奉神礼は、至聖三者大聖堂で行われ、普段はガラスで覆われている聖セルギイの不朽体 に直接接吻をする機会が与えられる。このため早朝にもかかわらず多くの信者が参祷する。また修道院の一角にはホテルが設置され、多くの巡礼者がロシア人を中心に集っている。
世界遺産登録経緯
上述の通り、1920年ソ連政府によって、野外文化財博物館となり、その後、ロシア正教会によって文化財の復元修理が行われていった。1993年 ユネスコ によって修道院全体と周辺の建造物群が世界遺産 に登録された。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準 のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター 公表の登録基準 からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
至聖三者セルギイ・ラヴラ(トローイツェ・セールギエフ大修道院)のパノラマ
脚注
注釈
出典
^ 「ラドネジのセルギイ 」英語版 (2022年12月現在)によると、列聖年は「1452年か1448年かのいづれか」。
関連項目
外部リンク