1942年4月21日、ハーデルマン大尉はおよそ1000人の捕虜を前に「ある大尉だった男の言葉」(Das Manneswort eines Hauptmanns)と題した演説を行った。1942年5月31日、初の反ファシスト将校委員会が開かれる。23人の将校は捕虜収容所における全将校の説得について同意した。彼らはまた、ドイツ共産党が提出した「ヒトラー・ドイツによる戦争とナチ圧政に対する闘争委員会結成の為の共産党中央委員会による提案」(Vorschlag des Politbüros des ZK der KPD zur Bildung eines deutschen Komitees zum Kampf gegen Hitlerkrieg und Nazityrannei)にも同意した。
執行委員会は共産党からウルブリヒトとヴァイネルトが、軍人からハーデルマンとツィーペルが参加した。BDOの合流後はBDOメンバーからルイトポルト・シュタイドル(英語版)やハンス=ギュンター・ファン・ホーフェン(ドイツ語版)が執行委員に参加した。また執行委員会に作戦局(operative Abteilung)が設置されると、ウルブリヒト、ライアー、シュタイドル、ファン・ホーフェン、ツィーペルらが所属した。さらに経済局、社会政策局、法制局なども執行委員内にて整備されていった。またヴァイネルト委員長、カール・ヘッツ(ドイツ語版)副委員長、ハインリヒ・フォン・アインジーデル(英語版)委員は委員会幹部総会(Präsidium des Komitees)を設置した。幹部総会は委員会を代表する部局で、事実上ヴァイネルト委員長個人が全ての決定を下していた。
またモスクワでは、ドイツ国民委員会とは別に戦争捕虜らで都市委員会(Stadtkomitee)という組織を設立していた。この委員会は後に第99号研究会(Institut Nr. 99)と呼ばれるようになった。これらの組織は当初並列して存在していたが、共産党が提案した「ヒトラー・ドイツによる戦争とナチ圧政に対する闘争委員会結成の為の共産党中央委員会による提案」の下で合流を果たした。同提案では研究会の役割について次のように規定されている。
投降した将軍達は委員会によるラジオ放送で効果的に利用された。彼らの声を通じて委員会参加の意義やナチスへの非難を含めるプロパガンダを行う他、虚偽の軍事情報を流布する事もあった。例えば1944年12月8日に行われた「50人の将軍による要請」(Aufruf der 50 Generäle)なる放送は、将軍達がドイツの軍民に対して、戦争の終結の為にもヒトラーへの非難を行うように求めるものであった[4]。
Jürgen Tubbesing: Nationalkomitee Freies Deutschland, Antifaschistischer Block, Einheitspartei. Aspekte der Geschichte der antifaschistischen Bewegung in Leipzig. Sax, Beucha 1996. ISBN 978-3-930076-25-3
Karl-Heinz Frieser: Nationalkomitee Freies Deutschland. Der Krieg hinter Stacheldraht in sowjetischen Gefangenenlagern. In: Militärgeschichtliches Beiheft zur Europäischen Wehrkunde. Mittler, Herford, 4. Jg. Heft 3, Juni 1989 ISSN0932-0458
Heike Bungert: Das Nationalkomitee und der Westen. Die Reaktion der Westalliierten auf das NKFD und die Freien Deutschen Bewegungen 1943–1948. Franz Steiner, Stuttgart 1997
Bodo Scheurig: Verräter oder Patrioten : das Nationalkomitee "Freies Deutschland" und der Bund Deutscher Offiziere in der Sowjetunion 1943 - 1945 Überarbeitete und ergänzte Neuausgabe, Berlin, Frankfurt am Main : Propyläen 1993, ISBN 3-549-07234-1 (erste Auflage 1984).