この項目では、ドイツの宣教師について説明しています。同名のローマ教皇については「ボニファティウス 」をご覧ください。
聖ボニファティウス (ドイツ語 : Bonifatius 、675年 頃 - 754年 6月5日 )は、8世紀 にフランク王国 にキリスト教 を伝えた宣教師 ・殉教者 である。カトリック教会 、正教会 、ルーテル教会 、聖公会 で崇敬される聖人 であり、「ドイツ人の使徒 」 (ドイツ語 : Apostel der Deutschen ) とも呼ばれるドイツ の守護聖人 である。マインツ大司教(在位:745年 - 754年)。ラテン語 ではボニファチウス またはボニファキウス (Bonifacius) 、フランス語 ・英語 ではボニファス (Boniface、英語ではボニフェイス とも発音) と呼ばれる。但し、ドイツ語 : Bonifatius の発音に最も近い日本語表記は「ボニファーツィウス」。
生涯
「トールのオークの倒伏を見るボニファティウス」(1737年、バイエルン州 ミースバッハ シラーゼーの聖マルティヌス教会所蔵)
現在のフリッツラー司教座聖堂
672年 頃、ウェセックス 王国クレディントン (英語版 ) (現イングランド ・デヴォン )にて、ウィンフリート (Winfrid または Wynfrith) として裕福で地位のある一家に生まれる。まだ若い時に、父の希望に反して修道士の道を選んだ。エクセター 近くの Adescancastre 及びサウサンプトン 西端のナースリング (Nursling) のベネディクト会 修道院にてウィンバート (Winbert) 修道院長より神学を学ぶ。修道院付きの学校で教壇に立ち、30歳で神父となる。イングランドで最初のラテン語 文法書を著した。
フリースラントへの最初の伝道
716年 、ウィンフリートはフリースラント へ伝道に赴く。現地の言語(古フリジア語 )が彼自身の母語であるアングロサクソン語 と近いところから、現地語による説教を通してフリースラントの人々を改宗させることが目的であった。しかし、カール・マルテル とフリースラント王ラートボート との間の戦争によりままならず、ナースリングへ戻った。
「トールのオーク」と北ゲルマン民族の改宗
718年 、ウィンフリートはローマ を訪れ、719年 に教皇グレゴリウス2世 より「善をなす人」を意味するボニファティウスの名を与えられ、ゲルマニア への伝道と教会整備の任を与えられた。その後5年間、ボニファティウスはヘッセン 、テューリンゲン およびフリースラントにて任務にあたり、722年 11月30日、ゲルマニア地域の司教 に昇任された。
723年 、ボニファティウスはガイスマー村(Geismar、現ヘッセン州 北部のフリッツラー )にあったトール へ捧げられた聖なるオーク を切り倒した。この際、預言者エリヤ を念頭におき、もしこの木が「聖なる」ものであるならば自らに雷を落とせとトールに呼びかけたという。ボニファティウスの同時代人で、その最初の伝記記者となった聖ウィリボールド によれば、ボニファティウスがオークの古木を切り始めると、まるで奇跡のように突然大風が起こり、オークをなぎ倒したという。トールの雷がボニファティウスに落ちなかったのを見て、人々はキリスト教へと改宗した。ボニファティウスはこの地にこの木から礼拝堂を建て、現在ではここにフリッツラー司教座聖堂 が建つ。この後、ボニファティウスはリーメス の北、エーダー川 を見下ろす小高い丘に位置するフランク王国の要塞基地ビュラブルク (英語版 ) にゲルマニアで最初の司教区 を設けた。トールのオークの伐採は、ゲルマニアのローマ帝国 時代の国境の北部および西部におけるキリスト教化の始まりと一般にみなされている。
カロリング朝との関わり
上段:洗礼を行う聖ボニファティウス。下段:聖ボニファティウスの殉教(フルダの典礼書)
ボニファティウスの布教活動に不可欠であったのが、フランク王国 の宮宰 、すなわち後のカロリング朝 の支配者達の助力であった。ボニファティウスは723年よりカール・マルテル の庇護下にあり、宮廷内の教育にも関わっていた。サクソン人 と対立し、その領土の奪取による王国拡大を目指すカロリング朝の王達にとって、ボニファティウスによるザクセンの土着信仰の聖地破壊やキリスト教布教は好都合であった。
ボニファティウスは732年 にローマへ報告に赴き、グレゴリウス2世よりゲルマニアを管轄する大司教 の証としてパリウム を受けた。737年 から738年の3度目のローマ訪問ではゲルマニアへの教皇特使 (英語版 ) に任命された。この3度目のローマ訪問の後、カール・マルテルはバイエルン にザルツブルク 、レーゲンスブルク (英語版 ) 、フライジンク (英語版 ) 、パッサウ (英語版 ) の4つの司教座を設けてボニファティウスに寄進し、ライン川 東の全ゲルマニアの大司教としてボニファティウスを認めた。745年 には首都大司教 の司教庁としてマインツ を与えた。これに先立つ742年には、フリッツラーの近くに弟子の一人である聖シュトゥルム (英語版 ) がフルダ修道院を建設したが、この建設にあたり、カール・マルテルの息子カールマン が認可に署名した。ボニファティウス自身が旧友のウィンチェスターのダニエルに、カール・マルテルの庇護がなければ「教会の運営も、聖職者たちの保護も、偶像崇拝の禁止も」できないだろうと語っている。更にフランク王国内の教会会議を組織し、難しい局面もあったが、ピピン3世 との関係を維持した。751年のソワソン でのピピン3世の戴冠式ではボニファティウスが戴冠を行った可能性がある。
ボニファティウスの活動はザカリアス 教皇に高く称賛された。[ 1]
カロリング朝の保護を布教に利用する一方で、ボニファティウスは教皇やバイエルン の支配者(アギロルフィング家 )との関係を利用してカロリング朝からの独立の維持を図った。ヴュルツブルク とエアフルト に司教座を設け、司教としての任命権を保持することで、カロリング朝から一定の距離を保った。
フリースラントへの最後の伝道
フルダの聖ボニファティウスの墓所
オランダ 、フローニンゲン州 ワルフハイゼンの教会にある聖ボニファティウスの聖遺物容器の内部。左:ヌルシアのベネディクトゥス の骨の断片を包んだ紙。右:クレルヴォーのベルナルドゥス の僧衣の断片を包んだ紙。中央:聖ボニファティウスの遺骨(長さ約5センチ)。
ボニファティウスはフリースラントへの伝道の希望を捨てず、754年 にわずかな従者を連れてフリースラントへ向かった。多くの洗礼を行い、フラネカー (英語版 ) とフローニンゲン の中間、ドックム (英語版 ) にほど近い場所で集団堅信式を開催した。しかし、その場に信者は現れず、武装した現地人の集団がボニファティウスを刺殺した[ 2] 。フリースラントの法(レックス・フリジオヌム )によれば、フリースラント人には彼らの神殿を破壊したボニファティウスを殺す権利があった。ボニファティウスの伝記によれば、フリース人 はボニファティウスの荷の中に金や財宝があると思って殺害したが、荷を開けてみると中は本だけであったという。
ボニファティウスの遺骸はしばらくユトレヒト にあったが、やがてフルダ の修道院に埋葬され、現在ではフルダ司教座聖堂 (英語版 ) の祭壇 下の地下聖堂 に墓所がおかれる。
エルベ川 までのゲルマニアの改宗は、8世紀末、サクソンを打ち破ったカール大帝 によって完成されることとなる。
記念
聖ボニファティウスの祝日 は、カトリック教会 、ルーテル教会 、聖公会 では6月5日 、正教会 では12月19日 である。聖人としての持物は斧、書物、泉、キツネ、オーク、カラス、笞、剣である[ 3] 。
ドイツではボニファティウスの像として有名なものがマインツ大聖堂 に立つ。またフリッツラー司教座聖堂にもより新しい像が立つ。
英国には聖ボニファティウスに捧げられた教会が相当数ある。出生地クレディントン (英語版 ) (デヴォン )のカトリック教会には廟堂があり、またクレディトンのニューカムズ・メドー・パークにはケネス・カーターによるトールのオークの伐採の浮き彫りがあり、イギリス王女マーガレット が除幕を行った。
1818年、ルパート・ランド のレッド川 東岸で布教を行っていたノルベール・プロヴァンシェはここに丸木の教会を建て、聖ボニファティウスの名を冠した。プロヴァンシェが司教に聖別 され、聖ボニファティウス大司教管区が認められた後、この丸木の教会は聖ボニファティウス司教座聖堂 (英語版 ) として聖別された。また聖堂を中心に形成されたコミュニティはやがてマニトバ州 セント・ボニファス (英語版 ) となり、1971年、ウィニペグ 市に編入された。
アメリカ合衆国 でもインディアナ州 ラファイエット に1800年代に建てられた聖ボニファティウス教会があるほか、シカゴ にドイツ系移民によって1865年に建てられた聖ボニファティウス教会がある(現在の教会は1903年建造だが、1990年以降使用されていない)。
伝説
トールのオークの伐採と絡めて、ボニファティウスがクリスマスツリー を発明したという伝説がある。すなわち、異教徒とその神々の目前で切り倒したトールのオークの後には、新しい信仰の象徴として樅の木が育ったというものである[ 4] 。
関連書籍
Talbot, C. H., ed., "The Anglo-Saxon Missionaries in Germany: Being the Lives of S.S. Willibrord, Boniface, Strum, Leoba and Lebuin, together with the Hodoeporicon of St. Willibald and a Selection from the Correspondence of St. Boniface," NY: Sheed and Ward, 1954. (ウィリボールドによる最初の伝記などの史料の英訳を含む。)
脚注
^ https://www.cbcj.catholic.jp/2009/03/11/5951/
^ 谷克二 『ブリュッセル歴史散歩 中世から続くヨーロッパの十字路』日経BP企画、2009年、17頁。ISBN 978-4-86130-422-4 。
^ Boniface from Patron Saints Index
^ Boniface of Crediton