美努王(みぬおう/みのおう)は、敏達天皇の後裔で、四位・栗隈王の子。官位は従四位下・治部卿。表記については『六国史』にて弥努王・美奴王・美弩王・三野王など様々な記載がされており、人物比定にも問題がある[1]。
出自
各種史書において、いずれも敏達天皇の後裔とされるが、その系譜に関しては以下相違がある。
経歴
天武天皇元年(672年)6月に壬申の乱が起こった際に、大友皇子側の近江朝廷の命令を受けて軍兵を徴発するために佐伯男が筑紫に下向してきたが、筑紫大宰・栗隈王は外敵への備えを理由に徴発を拒否した。佐伯男は命令に従わない場合は殺すようにも命じられていたが、王の2人の息子である三野王と武家王が太刀を帯びて近くに侍していたために任務を果たすことができなかったという[3]。
天武天皇10年(681年)天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した[4]。持統天皇8年(694年)筑紫大宰率に任ぜられる(このときの位階は浄広肆)。
大宝元年(701年)大宝律令の施行により位階制が定められると正五位下となり、同年造大幣司長官に任ぜられる。その後、左京大夫・摂津大夫・治部卿などを歴任し、位階は従四位下に至る。和銅元年(708年)5月30日卒去。『万葉集』巻十三3327・3328は、王を失った愛馬が嘶いていることを詠んだ長歌・反歌とする説がある。
官歴
『六国史』による。
系譜
脚注
- ^ 美濃王項目を参照。
- ^ 『続日本紀』天平宝字元年正月6日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇元年6月26日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇10年3月17日条
参考文献
- 原島礼二「上毛野『伝承』採用の条件ー七世紀後半の上毛野氏の地位からー」『日本歴史』154号1961年4月
- 原島礼二「八色姓と天武政権の構造」『史学雑誌』70編8号1961年8月
- 胡口靖夫「美努王をめぐる二、三の問題」『国史学』92号 (1974年(昭和49年))
- 松崎英一「天武紀考証二題」『日本歴史」321号1975年2月
- 藤原茂樹「三野王に関する基礎的考察ーその識別及び馬との関りについてー」『萬葉』125号1987年2月
- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社学術文庫、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社学術文庫、1995年
- 義江明子『県犬養橘三千代』(吉川弘文館、2009年(平成21年))