橘 佐為(たちばな の さい)は、奈良時代前期から中期にかけての賜姓皇族・貴族。初名は佐為王。従四位下・美努王(三野王)の子。官位は正四位下・中宮大夫。
天平年間初頭に風流侍従の一人とされた狭井王[1]と同一人物と想定される。佐為流の始祖。
経歴
和銅7年(714年)二世王の蔭位により无位から従五位下に叙爵。養老5年(721年)従五位上に叙せられ、まもなく紀男人・山上憶良らと共に、教育係として退朝後に皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられる[2]。
神亀元年(724年)正五位下、神亀4年(727年)従四位下、天平3年(731年)従四位上と順調に昇進した。天平8年(736年)兄・葛城王と共に、母・県犬養三千代が和銅元年(708年)に与えられた橘宿禰姓の賜与を願い許されて臣籍降下し、橘佐為と名乗る。天平9年(737年)2月に正四位下に叙せられるが、おりから流行していた天然痘のため同年8月1日に卒去。最終官位は中宮大夫兼右兵衛率正四位下。
官歴
『続日本紀』による。
系譜
脚注
- ^ 『藤氏家伝』下
- ^ 『続日本紀』養老5年正月23日条
- ^ a b 『尊卑分脈』など
- ^ 『続日本紀』天平宝字3年7月5日条
- ^ 木本好信「橘古那可智の入内と藤原氏」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年(P142.)は真姪を男子(綿裳の弟)としている。
参考文献