結城 広綱(ゆうき ひろつな)は、鎌倉時代中期の武士・御家人。下総結城氏第3代当主。
通称は三郎(『吾妻鑑』)、上野大夫判官。官位は、六位・兵衛尉、左衛門尉・検非違使、上野介、従五位下。
生涯
第2代当主・結城朝広の子として誕生。母は安保実光の娘。生年については、承久3年(1221年)と安貞元年(1227年)の二説がある。
『吾妻鏡』では、建長2年(1250年)から文永3年(1266年)の間に名が見える。建長6年(1254年)、祖父で結城氏初代の朝光が死去。そのとき、広綱の父・朝広は65歳で、翌建長7年(1255年)11月には広綱に家督を譲っている。
正嘉元年(1257年)7月、検非違使に任ぜられ、「上野大夫判官」と称した。同時期、ともに検非違使だったのは足利家氏、二階堂行氏、二階堂行有など、東国の有力御家人だった。文応元年(1260年)9月28日、上野介に任ぜられた。
弘安元年(1278年)6月23日(「結城御代記」)、死去した。家督は時広が継いだ。
墓所は父・朝広や祖父・結城朝光、子・時広と同じ称名寺(結城称名寺)である。また、新福寺の寺伝によれば、文永年間に長楽寺(新福寺の前名)の開基となり、念仏宗に帰依したとされている。法名は新福寺殿教阿弥陀仏と伝わる。
婚姻関係
妻は、二階堂行忠の娘、小田泰知の娘。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク