細川 立孝(ほそかわ たつたか)は、江戸時代前期の武将。官位は従五位下・中務大輔。
生涯
細川忠興の四男(庶子)として誕生した。はじめ僧籍に入り、立充(りゅういん)と名乗った。
晩年の父忠興に溺愛され、兄忠利が熊本藩に移封されると、寛永9年12月(1633年)に隠居の父忠興と共に八代城に入城した。忠興は北の丸に、立孝は本丸に住した。また、還俗して立孝(たつたか、「孝」は祖父・藤孝の1字)と名乗る。寛永11年12月(1635年)、五条為適の娘・鶴と八代にて婚儀を執り行う。寛永15年(1638年)1月4日に島原の乱に出陣する。寛永16年(1639年)、将軍に拝謁後、還俗した。忠興は自分の隠居料の八代7万石を立孝に与えようとしていたが、正保2年(1645年)に江戸表で没し、同年に後を追うように忠興も没した。翌年、遺児・宮松(行孝)を宇土に移し、立孝の内分領の宇土3万石が与えられ、宇土藩が立藩した。
兄の忠利の子孫である肥後細川家の嫡流は細川治年で途絶え、立孝の子孫が宇土藩から熊本藩に入って本家を継いだため、熊本藩9代藩主細川斉茲から現在の当主細川護熙(元首相)までの歴代当主は立孝の子孫である。
系譜
- 父:細川忠興(1563年 - 1646年)
- 母:幾知 - 吉、圓通院、清田鎮乗(清田鎮忠の婿養子)の娘
- 正室:鶴 - 恵照院、五条為適の娘
- 側室:慈広院 - 布施野氏
- 側室:斎藤氏
- 生母不明の子女