第十四航空隊(二代)[1](だい14こうくうたい)および1942年11月1日より改称した第八〇二海軍航空隊(だい802かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。横浜海軍航空隊・東港海軍航空隊に続く第三の飛行艇部隊として、外洋偵察・哨戒行動に従事した。
太平洋戦争序盤の攻略が順調に進捗したが、ヤルートを拠点としていた横浜海軍航空隊(浜空)をラバウルに前進させる必要性が生じた。しかしハワイからミッドウェー島方面の哨戒部隊を維持する必要もあったため、チモール島に進出していた東港海軍航空隊(東港空)から1個飛行隊を捻出し、浜空の残留1個飛行隊と連合して特設の飛行艇航空隊をヤルートに残留させることとした。そこで昭和17年(1942年)4月1日、東港空飛行隊の第1陣が到着したことを受けて、二代目となる十四空を立ち上げた。しかし、東港空飛行隊の合流は1ヶ月かかったうえ、最終便2機が全損したため、編制当初から定数に達していない。
以後、イミエジに本隊、マキン環礁に分遣隊を置き、ギルバート諸島・ナウル・オーシャン島方面の哨戒に従事。
マキン奇襲部隊撤収後に分遣隊復帰、マキンの駐留再開。
鴨遊波夫司令以下、司令部および基地要員の多くはウォッゼに残留。
鴨司令は救出を断固拒絶し、40名の要員を優先的に収容させ、2月13日の艦砲射撃で戦死。
飛行艇の運用が困難になったうえに、「あ号作戦」準備のためにマリアナ諸島には多数の陸上機部隊が集結し、飛行艇に割く物資および人員が確保しにくくなった。実戦に向かない八〇二空は内地に送還され、本土近海の哨戒活動に充てるために八〇一空に合流した。
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