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艦歴
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計画 |
昭和6年度計画[1]
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起工 |
1935年1月28日[1]
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進水 |
1935年8月3日[1]
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竣工 |
1936年1月15日[1]
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その後 |
1945年8月2日触雷により損傷[1]
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除籍 |
1945年11月20日[1]
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解体 |
1948年9月1日完了[1]
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性能諸元(竣工時)
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排水量 |
基準:578トン 公試:700トン
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全長 |
72.50 m
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全幅 |
7.85 m
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吃水 |
4.55 m
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機関 |
ロ号艦本式缶(混焼)2基 艦本式タービン2基 2軸、3,200馬力
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速力 |
19.0ノット
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航続距離 |
12ノットで2,600海里
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燃料 |
重油:47トン 石炭:110トン
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乗員 |
94名
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兵装 |
45口径三年式12 cm砲 2門 13 mm機銃 連装2基 九四式爆雷投射機1基 爆雷36個 掃海具
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第十七号掃海艇(だいじゅうななごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第十七号型掃海艇の1番艦。
艦歴
1935年(昭和10年)1月28日、大阪鉄工所桜島工場で起工[1]。同年8月3日進水。1936年(昭和11年)1月15日に竣工。第十七号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。
1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加[1]。太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事[1]。1945年(昭和20年)8月2日、鎮海で触雷により損傷した[1]。同年11月20日に除籍。1948年(昭和23年)9月1日[1]、佐世保船舶工業(旧佐世保海軍工廠)で解体が完了。
歴代艇長
※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 艇長
- 田口正一 少佐:1936年1月15日[3] - 1936年6月20日[4]
- 大石新一 少佐:1936年6月20日[4] - 1936年7月21日[5]
- 安並正俊 大尉:1936年7月21日[5] - 1937年12月1日[6]
- 上井宏 少佐:1937年12月1日[6] - 1938年9月15日[7]
- 中山定義 大尉:1938年9月15日[7] - 1938年12月15日[8]
- 西野繁 大尉:1938年12月15日[8] - 1939年11月15日[9]
- 黒木政吉 少佐:1939年11月15日[9] - 1940年4月1日[10]
- 橋本正雄 大尉:1940年4月1日[10] - 1940年10月15日[11]
- 橘広太 大尉:1940年10月15日[11] - 1941年7月17日[12]
- 安東英雄 予備大尉:1941年7月17日[12] -
脚注
参考文献
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掃海艇 |
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掃海特務艇a |
一等掃海特務艇ab | |
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二等掃海特務艇ab | |
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第一号型 | |
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戦利掃海特務艇 |
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- a. 1923年6月30日 「掃海艇」を「掃海特務艇」に改正
- b. 1933年5月23日等級廃止
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