碧川好尚

碧川 好尚 (みどりかわ よしひさ 文化4年(1807年)-?)は、江戸時代後期の国学者伊予国(現、愛媛県新谷藩[1]平田篤胤の門人で、篤胤の養子となった平田銕胤の実弟[1]。銕胤より8歳下。生田万とならぶ平田塾二大高弟の一人である[2][注釈 1]。通称は卯之助、操之助[1]

人物略歴

文化4年(1807年)生まれ。文政5年(1822年5月15日、兄碧川篤眞(のちの平田銕胤)の影響により16歳のとき、平田篤胤の私塾気吹舎に入門した。兄と同様、求道の念篤く学問に秀で、のちに師の遺著『大道或問』を編集して上梓し、安政2年(1855年)には自ら神代巻を大要した『稽古要略』『神武沿革考』を著した。また上述の『大道或問』や『三神山餘考』など師の著作の序文も記している。

系譜

  
       平田篤胤━━━━おてう  
                ┣━━━━━平田延胤
             ┏平田銕胤
             ┃(碧川篤眞)       
碧川武左衛門…碧川良正━━┫             
             ┃             ┏碧川熊雄
             ┗碧川好尚━━みね     ┃
                    ┣━━━━━━┫
              小玉雄庸━碧川真澄    ┃        
                  (小玉羊五郎)  ┗碧川企救男   
                              ┣━━━━━━碧川道夫
                  和田邦之助━━━━━━かた     
                              ┃     
                              ┃     
                              ┃     
                              ┃     ┏三木露風
                              ┣━━━━━┫
                              ┃     ┗三木勉
                            三木節次郎

脚注

注釈

  1. ^ 生田万は、天保8年(1837年)に生田万の乱を起こしたが、敗死した人物。生田万が撰述した『古学二千文』は平田塾での書道の手本となった。

出典

参考文献

関連項目

外部リンク