皇室令(こうしつれい)とは、旧皇室典範を根拠として、皇室典範に属する法体系いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた、皇室に関係する一連の天皇の命令を指す。これは大日本帝国憲法に属する法体系いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない(典憲二元主義)。
1947年(昭和22年)5月2日、日本国憲法施行に先立ち発せられた皇室令「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号[注釈 1])により、80件の皇室令及び38件の附属法令(宮内省令35件、宮内省達2件、閣令1件)が廃止された。
当時の皇室典範に基づく諸規則、宮内官制及びその他の皇室の事務に関して、勅定を経た規定で発表を要するものは、皇室令として制定し、上諭を附してこれを公布した。この法形式は明治40年2月1日に公布施行された公式令第5条で始めて制定された。日本国憲法施行に伴い、この法形式が廃止されることとなり、1947年(昭和22年)5月2日公布の「皇室令及附属法令廃止ノ件」によって全ての皇室令が1947年(昭和22年)5月2日限りで廃止されている。
大日本帝国憲法に基づく法体系(いわゆる「国務法」)と皇室典範に属する法体系(いわゆる「宮務法」)の二系統が存在することを、「典憲二元主義」という。その例外として、朝鮮王朝の末裔である王公族に関する法令がある。国務法に属する「王公族ノ権義ニ関スル法律」(大正15年12月1日法律第83号[注釈 2])を根拠に、「王公家軌範」(大正15年12月1日皇室令第17号[注釈 3])を制定する、異例の形態をとった。これは、帝室制度審議会の伊東巳代治が「皇族に準ずる扱い」である王公族の規範を皇族令として定めることにこだわった一方、「皇族ではない」王公族の権利義務は国務法で定める必要があったため、その解決策として法律によって帝国議会から立法権を委任させたためである[1]。
上諭には親署の後、御璽を鈐し、宮内大臣は年月日を記入しこれに副署することとされていた。但し、国務大臣の職務に関連する皇室令の上諭には、内閣総理大臣又は内閣総理大臣及び主任の国務大臣とともにこれに副署することとされていた。(公式令第5条第2項)
皇室令について、公布された年次毎に一覧を記す。前述のように明治40年の公式令により皇室令という法形式が制定されたため、明治39年以前の皇室令は存在しない。