畠山 義隆(はたけやま よしたか)は、能登国の戦国大名。能登畠山氏の当主。七尾城城主。
生涯
畠山義綱の嫡子として誕生(『長尾家譜』では長男)。母は六角義賢の娘。異母兄・二本松義有(伊賀守)は、妾腹のため二男とされた。弟に随林。
永禄8年(1565年)3月、父・義綱の後継を巡って家中が分かれる。義綱と重臣・遊佐続光らは、異母兄・義有を擁立しようとし、これに対して、飯川義宗(肥前守)や長続連らは正室の子である義隆を支持した。
同年4月、父・義綱は、後継者問題や自身の行状のこともあり、家臣によって能登を追われ、越後国の上杉謙信を頼った。以後、義綱は、上杉氏の援助により、複数回にわたり七尾城復帰を目指すことになる。
義隆は重臣に擁立され、13歳で七尾城主となった。
天正2年(1574年)7月12日、遊佐続光により毒殺された(『本朝通鑑』ほか)[8](「栃尾市史資料」では、天正4年(1576年)としている)。
19歳(一説に18歳)。法号は幽徳院殿宗栄大禅定門。
このとき2歳だった息子・春王丸(義春?)が跡を継いだ。
天正5年(1577年)9月、上杉謙信は、七尾城を落とした後、義隆の未亡人・三条氏を上野国厩橋城城主・北条高広(北条景広?[14])に再嫁させた。その際、謙信は「出家の身分として世話如何と思えど」との言葉を残している。
異説
- 永禄9年(1566年)、父・義綱と祖父・義続が重臣によって追放され、兄とされる義慶が家督を継ぐと、二本松氏を名乗って兄の補佐役を務めたとも言われる(若年の義隆が実際に兄を補佐できたかどうかは疑問である)。
- 義隆と義慶は同一人物説もある。しかし、上杉家の史料に「義高」と表記しているものもあり、別人の可能性も否定できない。
脚注
参考文献
能登畠山氏11代当主(1574年 - 1576年) |
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