田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)6月11日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の地質学者・火山学者。理学博士[1]。
人物
岩手県二戸市出身[1]。出生名は下斗米秀三[2]。東京帝大を卒業した後に[注釈 1]、血縁上は従兄(4親等)である田中舘愛橘(秀三は、愛橘の実弟[1]である下斗米与八郎[1]の三男[5][6])の婿養子となって田中館秀三を名乗り、愛橘の一人娘である美稲(血縁上は従姪〈5親等〉)を娶った[1][5][6]。
第三高等学校(京都)を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学大学院理学系研究科・理学部)地質学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した[1]。翌年の1909年(明治42年)9月、満25歳の若さで、東北帝国大学農科大学水産学科(現:北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部)教授 兼 東北帝国大学農科大学(現: 東北大学大学院農学研究科・農学部)助教授に任じられ、高等官7等に叙された[3]。
1910年(明治43年)からドイツ・イタリアに6年間留学。イタリア留学時に行ったヴェスヴィオ火山についての研究で知られる。昭和新山の命名者で、鹿児島県の昭和硫黄島の新島噴火を詳細に調査している[7]。
北海道帝国大学、東北帝国大学、ナポリ大学で、火山学・湖沼学・経済地理学を講義。万国火山学会副会長。著書に「日本のカルデラ」「マリアナ・イタリアの火山」「東北地方の経済地理研究」など[8]。
太平洋戦争(大東亜戦争)中に、北海道帝国大学理学部助教授 兼 東北帝国大学法文学部講師[9] であった田中は、日本の占領下にあったシンガポール(昭南島)にてシンガポール博物館長 と シンガポール植物園長 を務め[9]、世界屈指の熱帯植物園であったシンガポール植物園の保護に尽力し、敵国のイギリスから「破格の国際感覚と行動力の持ち主[1]」と称賛された[1][注釈 2]。田中は、戦争中の1944年(昭和19年)に自ら『南方文化施設の接収』(時代社、1944年、国立国会図書館デジタルコレクション)を上梓し、詳細を書き残している。
著作
著書
共著
論文
共著
脚注
注釈
- ^ 東京帝大理科大学を卒業して、東北帝大農科大学水産学科教授 兼 東北帝大農科大学助教授に任官した明治42年(1909年、満25歳〉時点では下斗米秀三を名乗っていた(出典:官報[3])。その7年後、大正5年(1916年、満32歳)時点では田中舘秀三を名乗っている(出典:職員録〈内閣印刷局〉[4])。
- ^ 森村誠一による小説『南十字星の誓い』(角川書店〈角川文庫〉、2012年、ISBN 978-4-04-874250-4)で、史実を下敷きにして、シンガポール博物館/植物園の保護に奔走する田中が描写されている。
出典
外部リンク