田中 亜土夢(たなか あとむ、1987年10月4日 - )は、新潟県新潟市東区出身のプロサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー。HJKヘルシンキ所属。
兄はサッカー審判員の田中玲匡[2]。既婚。
来歴
プロ入り前
10歳の頃からサッカーを始める。中学卒業前にサンフレッチェ広島ユースのセレクションを受けたが、最終選考で落選した[3]。中学卒業後は新潟を離れて前橋育英高校に進学したが、全国高等学校サッカー選手権大会には出場できなかった。2005年にアルビレックス新潟の特別指定選手となり、リーグ戦2試合に出場した[4]。
アルビレックス新潟
高校卒業後の2006年に新潟に入団。リーグ戦22試合に出場し、J1第33節名古屋戦でプロ初得点を記録した[5]。2007年は前年に引き続きU-20日本代表に選出されたが、9月に右第5中足骨基部骨折で全治3ヶ月の重傷を負った[6]。
2008年、怪我から復帰すると徐々に出場時間を延ばし、25試合に出場して1得点を記録した。その後、約1年半出場機会に恵まれなかったが、2011年は右サイドハーフのレギュラーに定着し、リーグ戦25試合に出場してプロ入り後最多となる3得点を挙げた[7]。また、2011年12月3日のJ1第34節名古屋戦が、リーグ戦100試合目の出場となった[8]。
2012年は左サイドハーフにポジションを移し、サイドバックの金珍洙と共に攻撃の起点となった[9]。新潟はかろうじて残留を決める苦しいシーズンを送ったが、田中は自身初にしてチーム唯一のリーグ戦全試合に出場し、自己最多の4得点を記録した[4]。
前年に続き主力として活躍した2013年には、新潟のJ1昇格10年を記念して新潟日報が企画した10年間のベストイレブンに選ばれた[10]。シーズン終了後にはポーランド1部リーグのレヒア・グダニスクや、ドイツ2部リーグのエネルギー・コットブスといった海外クラブへの移籍話が持ち上がるが、いずれも実現せず新潟との契約を更新した[11][12]。2014年は自ら志願して背番号を10に変更[13]してプレーするが、シーズン終了後に海外移籍を目指して新潟を退団した[4]。
HJKヘルシンキ
2015年2月10日、フィンランド、ヴェイッカウスリーガ所属のHJKヘルシンキへの加入が発表された[14]。背番号は新潟時代に引き続き10番。同月13日のリーグカップ、ロヴァニエメン・パロセウラ戦で初出場し、90分に初得点を記録した[15]。加入一年目の田中はリーグ戦33戦中の31試合に出場。主にトップ下を務め、8得点を挙げた[16]。
2017年4月6日、開幕戦のヴァーサン・パロセウラ戦で2得点1アシストの活躍を見せた。国内2冠を達成し、2017年シーズン限りで3年間在籍したヘルシンキを退団した[17]。
セレッソ大阪
2018年よりJ1のセレッソ大阪に加入[18]。
2019年シーズンは、リーグ戦スタメン出場は無いものの21試合に出場し2得点を記録した[19]。ルヴァンカップ第4節で、チームメイトも驚く、胸トラップから左足ドライブシュートで決勝点を決めた[20]。ベガルタ仙台戦では、雪が降る状況でチームの2点目を決めて勝利に貢献、試合後には「かなり雪が強くなって、グラウンドがフィンランドみたいだったので、当時を思い返しながら、僕にとっては、ホームグラウンドでしたね」と話した。リーグ戦第26節アウェイ開催の浦和レッズ戦での決勝ゴールが9月度の月間ベストゴールに選ばれた。ゴールした際には『鉄腕アトムポーズ』を決めた[21]。シーズン終了後に契約満了により退団。
HJKヘルシンキ復帰
2020年3月、3年ぶりにHJKヘルシンキへの加入が発表された[22]。このシーズンは、リーグ戦とカップ戦の2冠達成に貢献した[23]。
2022年、ボランチとしてプレー。
プレースタイル
豊富な運動量を武器とする攻撃的ミッドフィールダー[24]。新潟在籍時は主に左右のサイドハーフとしてプレーした[24]。素早い攻守の切り替えでチームに貢献し、柳下正明監督に「攻守のスイッチを入れる選手」と評される一方で、要所でのボールロストが目立つ試合もあった[25][26]。
ボールの位置によって全体でスライドする事を志向するロティーナ監督は「我々の求めていることへ適応する能力が高い選手です。よりゴールが必要な状況であれば、トシ(高木俊幸)を選んでいたかも知れません。ただ、あの場面では、よりボールをキープできる選手、ディフェンス面でプレッシャーにいける選手、内側へのパスコースを締めることができる選手が必要だったので、亜土夢を入れました」と話した[27]。
人物
新潟所属時の田中は地元出身の生え抜き選手としてサポーター人気が高く、地元企業のCMや広告、自治体や警察等の広報にも多数起用された[1][28][29][30]。ローカル番組を中心にテレビ出演の機会も多く、2010年3月14日に放送された『やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜』にて、「テク-1グランプリ」というJリーグ各クラブの選手がテクニックを競う企画に出演し、チャンピオンに輝いている[1][31]。
2007年のサッカーダイジェスト選手名鑑では、趣味特技にけん玉、スノーボードを挙げていた[32]。近年は、水墨画に親しんでいる。
フィンランドのサッカークラブでプレーし、フィンランド文化を発信している縁から、フィンランド発祥のスポーツであるモルックの日本協会である、日本モルック協会オフィシャル・モルックアンバサダーに2022年8月より就任している[33]。
セレッソ大阪公式ユーチューブチャンネルで行われたフリースタイルフットボーラーとのリフティング対決に出演し、フリースタイルフットボールの世界大会で優勝経験のあるセアンガルニエー(英語版)を驚かせるパフォーマンスを披露した[34]。
所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2005 |
新潟 |
35 |
J1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0
|
2006 |
32 |
22 |
1 |
4 |
1 |
1 |
0 |
27 |
2
|
2007 |
23 |
11 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
13 |
1
|
2008 |
25 |
1 |
5 |
0 |
2 |
0 |
32 |
1
|
2009 |
5 |
0 |
3 |
0 |
2 |
0 |
10 |
0
|
2010 |
10 |
1 |
3 |
0 |
3 |
3 |
16 |
4
|
2011 |
25 |
3 |
2 |
1 |
1 |
0 |
28 |
4
|
2012 |
34 |
4 |
4 |
0 |
1 |
0 |
39 |
4
|
2013 |
33 |
4 |
6 |
0 |
2 |
1 |
41 |
5
|
2014 |
10 |
33 |
2 |
4 |
1 |
2 |
1 |
39 |
4
|
フィンランド
| リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯
|
期間通算
|
2015 |
HJK |
10 |
ヴェイッカウス |
31 |
8 |
5 |
1 |
3 |
2 |
39 |
11
|
2016 |
17 |
5 |
5 |
2 |
2 |
1 |
24 |
8
|
2017 |
33 |
7 |
- |
5 |
2 |
38 |
9
|
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2018 |
C大阪 |
32 |
J1 |
6 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
8 |
0
|
2019 |
21 |
2 |
8 |
1 |
3 |
0 |
32 |
3
|
フィンランド
| リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯
|
期間通算
|
2020 |
HJK |
37 |
ヴェイッカウス |
19 |
5 |
4 |
0 |
0 |
0 |
23 |
5
|
2021 |
16 |
1 |
5 |
1 |
0 |
0 |
21 |
2
|
2022 |
19 |
1 |
1 |
0 |
2 |
0 |
22 |
1
|
2023 |
18 |
1 |
5 |
2 |
1 |
0 |
24 |
3
|
通算 |
日本 |
J1
|
227 |
19 |
42 |
4 |
18 |
5 |
287 |
28
|
フィンランド |
1部
|
153 |
28 |
25 |
6 |
13 |
5 |
191 |
39
|
総通算
|
380 |
47 |
67 |
10 |
31 |
10 |
478 |
67
|
- 2005年はJFA・Jリーグ特別指定選手として出場
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
期間通算
|
2018 |
C大23 |
32 |
J3 |
1 |
0 |
1 |
0
|
2019 |
2 |
0 |
2 |
0
|
通算 |
日本 |
J3
|
3 |
0 |
3 |
0
|
総通算
|
3 |
0 |
3 |
0
|
その他の国際公式戦
記録
代表歴
脚注
- 出典
関連項目
外部リンク