片山 洋(かたやま ひろし、1940年5月28日 - )は、東京市目黒区(現:東京都目黒区)[2] 出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはディフェンダー(右サイドバック)。父は日産・フェアレディZの生みの親として知られる片山豊。また、義父は元毎日映画社社長の対馬好武。親戚に森永製菓第7代代表取締役社長の矢田雅之、第14代相模鉄道社長の対馬好次郎がいる。
目黒区自由ヶ丘(現:自由が丘)で生まれ、戦時中は伊豆に疎開していた。終戦後は再び自由が丘に戻り、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)でサッカーを始めて、東京学芸大学附属世田谷中学校および慶應義塾高等学校ではサッカー部に所属したが全国規模の大会への出場経験は無かった。慶應義塾大学法学部に進学後はソッカー部に入部し、大学2年時に慶應BRBの一員として天皇杯で準優勝した[2]。
大学在学中の1960年9月のパフタコル戦でサッカー日本代表として初出場[1]、以降日本代表として38試合に出場。1968年メキシコシティーオリンピックでの銅メダル獲得に貢献した。1968年5月23日に国立競技場で行われたアーセナルFCと日本代表の第1戦では相手シュートをパンチングして防ぎPKを与え決められたが退場にはならず続く第2戦、第3戦にもフル出場した[3]。
また、大学卒業後は三菱重工業に入社してサッカー部に所属。1972年までプレーしたが、1973年にサッカー部の選手登録を外れて、以降はサッカー界から離れて社業に専念することとなり[2]、ダイヤ・ピーアールの社長に就任。現在は同社顧問を務める傍ら、三菱養和サッカースクールでヘッドコーチ、日本サッカーリーグOBによる「旧丸の内5社会」の会長を務めている[4]。
2007年に日本サッカー殿堂入りを果たした。[5]。
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