奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日 - )は、秋田県鹿角市出身[2] の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー、ディフェンダー。元サッカー日本代表。現在は一般社団法人横浜FCスポーツクラブ(横浜FC)の代表理事兼シニアアドバイザー[3] を務めている。
1.FCケルンの中心選手として、ブンデスリーガ優勝と、DFBポカールで優勝した最初の日本人であり、UEFAチャンピオンズリーグ(旧称UEFAチャンピオンズカップ)の準決勝でゴールを成し遂げた最初のアジア人でもある。
来歴
古河電工時代
秋田県鹿角市十和田大湯(旧: 鹿角郡大湯町 → 十和田町)出身[2]。二卵性双生児の妹がいる。小学校5年時に一家で横浜市に転居する。
横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現湘南工科大学附属高等学校)に進学。同校卒業後の1970年、中学時代の外部コーチだった東邦チタニウムサッカー部監督・三村恪一の口利きで、三村と中央大学で同期だった古河電気工業サッカー部OBで日本サッカー協会の強化責任者だった長沼健に連絡を取り[4][5][6]、テストを受け、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部[4][5]。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ[7]、ユース代表を経て日本代表に選出される。同年に代表ではムルデカ大会で7ゴールを挙げて得点王に輝き[7]、天皇杯決勝ではゴールを挙げてヤンマーを破り優勝[8]、JSLでもチーム得点王となる8ゴールを挙げ[8]、二冠に貢献、ベストイレブンに選出された。
海外移籍への経緯
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・バイスバイラーと親しかったことから、奥寺、西野朗、金田喜稔[9] らをケルンの練習に参加させた[10]。
当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、バイスバイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、帰国の3日前に獲得の希望を伝えられた[10]。後に本人は、もし最初から入団に向けてのテストだと分かっていたら本来のプレーが出来なかったであろうと語っている[11]。
奥寺はドイツ語が出来ないことへの不安などから一度はオファーを断るが[12]、バイスバイラーの強い希望、古河の前監督の川淵三郎[12]、監督鎌田光夫、日本サッカー協会、日本代表の二宮からも移籍を後押しされ[10]、ドイツ行きを決意した。当時は欧州の選手であっても他欧州のクラブへ移籍した場合には代表チームへの招集が難しく、まして試合ごとに欧州と日本を行き来することは考えられない時代であり、欧州移籍により、代表チームから招集される可能性は無くなる事となった[13]。
1.FCケルン時代
1977年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュースブルク戦で先発デビューを飾った[14]。デビュー戦は試合開始30秒で相手にPKを与え、チームは勝利したものの、奥寺個人はさんざんな評価に終わった。その後もチームメイトの信頼を得られない時間が続いたが、12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴールを含む2ゴール[15] 2アシストの活躍後はチームメートからの信頼を得て[12]、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録[16]。バイスバイラー監督の下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めたザンクトパウリ戦では途中出場ながら2ゴールを挙げた[15][16]。
翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出、この試合は事実上の決勝であるとも考えられていた[17]。イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において途中出場から僅か数分で貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついた[18][19](これはアジア人プレーヤーとしては同大会での初ゴール[10]) が、第2戦はケルンのホームでの試合ということでケルンが有利とみられていたが、0-1で敗れ欧州制覇は成らず、インターコンチネンタルカップの出場もならなかった。
1980年にバイスバイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となった[10]。監督がリヌス・ミケルスに交代するも出場機会は全く増えず[20]、出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍した。
ヴェルダー・ブレーメン時代
1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、ここではサイドバックとして起用され[21]、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督から高く評価され[21]、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍する。
奥寺はウイングとしてブンデスリーガに渡ったが[21]、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目し、主にサイドバックとして起用された(FWなどのポジションでも起用された)[21]。
1982年、ニューヨークで行われた、FIFA選抜の、FIFAオールスターのメンバーの一員としてジーコ、パオロ・ロッシらと共に、ニューヨーク・コスモスと対戦した。(この様な世界選抜のメンバーに選出された日本人選手は釜本邦茂に次いで2人目となった[22])。同年のリーグでブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年にも2位と優勝こそ出来なかったが、好成績を残した。奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。1985-86シーズン、3月15日のフランクフルト戦でのゴールはドイツでの最後のゴールとなった[23]。シーズン最終戦を前にして2位バイエルン・ミュンヘンとの直接対決で勝利すれば優勝というところまでいくが、試合中に得たPKをミヒャエル・クツォップが失敗し敗北、それでもチームは最終節まで2ポイント差で首位を走っていたが、最終節でシュトゥットガルトに破れ、勝利したバイエルンと勝ち点で並んだが、得失点差で2位となり、2度目のブンデスリーガ優勝を逃した[24][25]。
ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算234試合出場、26得点[23]。この通算26点という記録は、2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点だった[26]。また、通算234試合出場も、2017年3月5日に長谷部誠が更新するまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多出場だった[27]。
古河復帰
1986年、「まだ選手として衰えないうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、ブレーメンからの契約延長要請を固辞[28]、キリンカップにブレーメンの選手として出場、日本代表と対戦した他、パルメイラス戦では後に会長と選手の間柄になる三浦知良と数度に渡り激しくマッチアップした[29]。この大会を最後に、古巣の古河電工に復帰した。
帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。この年のアジアクラブ選手権決勝大会ではアル・ヒラル戦で3ゴールを挙げるなど、優勝に貢献した[30]。ドイツでプレーしていたため代表に選出されることはなかったが、古河復帰にともない日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献した。最終的に中国との争いとなり、左サイドバックとして第1戦では相手エースを完璧に抑え1-0の勝利に貢献したが、ホームの第2戦では引き分けでもオリンピック出場権が獲得出来たが、奥寺の逆サイドを守備の穴として狙われ、0-2で落としソウル五輪出場は叶わなかった[31]。1988年8月12日、ナポリとの親善試合は代表での引退試合となった(先発出場し23分間プレー)[32]。
1987-88年シーズンを最後に現役を引退した。
引退後
引退後、サッカー解説業と並行して、しばらくの間は奥寺康彦サッカースクールで小学生向けの指導に当たっていた。
Jリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任。1996年には監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任した。
1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任。
2012年8月、日本サッカー殿堂入り[33]。
2014年11月、AFC初代殿堂入り[34]。
2017年10月、中田仁司の解任により監督が不在となったことで、第38節のFC町田ゼルビア戦で暫定的に指揮を執ることが発表された[35]。また同年はブンデスリーガレジェンドにも選ばれた[10]。
人物
1970年代、海外でプレーした日本人選手はまだいなかったが、当時、世界最高峰のリーグと言われたドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグランキング1位)で活躍した初めての日本人選手である[36]。3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。右サイドバック[21]、左サイドの中盤などでプレー[28]、ゾーンディフェンスでサイドの相手を押さえ込むだけでなく[28]、その正確なクロスボールと運動量[37]、安定したパスとシュート、戦術眼からくるプレースタイル、特に左足での強烈なシュートとスピードを武器にフォワードからディフェンダーまで出来る万能選手として様々なポジションで活躍し、地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれて賞賛され[38]、高評価された[28]。
欧州サッカー連盟主催の国際大会には6回出場しており、小野伸二に抜かれるまでアジア人最多だった。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録している。なお、16年後の1994-95シーズンにタジキスタンのラシッド・ラヒーモフが得点を上げるまで奥寺以外のアジア人の得点者は現れなかった。
一般的に「日本人初のプロサッカー選手」として紹介される事が多いが[39][40][41]、2人目のプロサッカー選手であるとの異説もある(後述)。両説に配慮してか、WOWOWでサッカー解説をする際は、「ヨーロッパにおける日本人プロ第1号」と紹介される。
エピソード
- ブレーメンに在籍していた1980年代に、プリマハムスポーツアドバイザーとして契約。ドイツでプレーしていることにかけて同社製品「熟成ロースハム」のテレビCMに夫人と一緒に出演していた。
- 第22回(1986-87年)日本サッカーリーグの公式ポスターモデルとして出演し、その時「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というキャッチコピーが登場し、日本サッカーがプロ化へ向かう事を象徴した[42]。
- サッカー漫画『キャプテン翼』37巻の77ページにて、経歴の説明と共に日本代表の監督として実名で登場している。自らの実力を試すために、翼は奥寺に対し一対一の勝負を挑んだが、奥寺を抜き去る事は出来なかった。架空の話ではあるが翼のドリブルを止めた数少ない登場人物となっている。
- ドイツで行われた2006年FIFAワールドカップ予選抽選会においてドロワーアシスタントに選ばれた。アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。
日本人初のプロサッカー選手
従来、日本人初のプロサッカー選手として紹介されてきたが、2000年代あたりから、1975年に香港の「東方足球隊」でプレーした佐田繁理(さだまさしの実弟)の方が日本人初のプロサッカー選手であるという紹介が一部メディアにより成される様になった[43][44][45][46]。ただし佐田は正式なプロ契約では無かったという説を採るメディアもあり、その場合は奥寺が日本初となる[43]。
所属クラブ
獲得タイトル
- 日本サッカーリーグ 1回(1976年)
- 天皇杯 1回(1976年)
- ブンデスリーガ 1回(1977-78)
- DFBポカール 1回(1977-78)
- アジアクラブ選手権 1回(1986-1987)
- ムルデカ大会得点王 1回(1976)
- JSL東西対抗戦(オールスター戦) 最優秀選手賞(MVP) 1回(1986年)
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本 |
リーグ戦 |
JSL杯 |
天皇杯 |
期間通算
|
1970 |
古河 |
|
JSL |
7 |
3 |
- |
|
|
|
|
1971 |
|
9 |
5 |
- |
|
|
|
|
1972 |
|
JSL1部 |
8 |
0 |
- |
|
|
|
|
1973 |
|
18 |
6 |
|
|
|
1 |
|
|
1974 |
|
18 |
5 |
- |
|
|
|
|
1975 |
|
18 |
9 |
- |
|
2 |
|
|
1976 |
|
18 |
8 |
|
8 |
|
2 |
|
|
1977 |
|
4 |
0 |
|
2 |
|
|
|
|
ドイツ
| リーグ戦 |
リーグ杯 | DFBポカール
|
期間通算
|
1977-78 |
ケルン |
|
ブンデス1部 |
20 |
4 |
|
|
4 |
2 |
24 |
6
|
1978-79 |
|
24 |
5 |
|
|
3 |
1 |
27 |
6
|
1979-80 |
|
30 |
6 |
|
|
8 |
1 |
38 |
7
|
1980-81 |
|
1 |
0 |
|
|
1 |
0 |
2 |
0
|
1980-81 |
ヘルタ |
|
ブンデス2部 |
25 |
8 |
|
|
4 |
0 |
29 |
8
|
1981-82 |
ブレーメン |
|
ブンデス1部 |
30 |
2 |
|
|
4 |
0 |
34 |
2
|
1982-83 |
|
34 |
4 |
|
|
2 |
0 |
36 |
4
|
1983-84 |
|
29 |
1 |
|
|
4 |
0 |
33 |
1
|
1984-85 |
|
33 |
3 |
|
|
4 |
0 |
37 |
3
|
1985-86 |
|
33 |
1 |
|
|
3 |
0 |
36 |
1
|
日本 |
リーグ戦 |
JSL杯 |
天皇杯 |
期間通算
|
1986-87 |
古河 |
3 |
JSL1部 |
21 |
2 |
0 |
0 |
※ |
21 |
2
|
1987-88 |
22 |
1 |
2 |
0 |
3 |
0 |
27 |
1
|
通算 |
日本 |
JSL1部
|
143 |
39 |
|
|
|
|
|
|
ドイツ |
ブンデス1部
|
234 |
26 |
|
|
33 |
4 |
267 |
30
|
ドイツ |
ブンデス2部
|
25 |
8 |
|
|
4 |
0 |
29 |
8
|
総通算
|
402 |
73 |
|
|
|
|
|
|
※1986年度の天皇杯は、古河電工がアジアクラブ選手権1986-87出場のため辞退
・JSL選抜チーム(1987年)1試合0得点
国際大会個人成績 |
年度 |
クラブ |
背番号 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点
|
UEFA | UEFA EL | UEFA CL |
1978-79 |
ケルン |
|
- |
2 |
1
|
1980-81 |
|
1 |
1 |
-
|
1982-83 |
ブレーメン |
|
6 |
1 |
-
|
1983-84 |
|
4 |
0 |
-
|
1984-85 |
|
2 |
0 |
-
|
1985-86 |
|
2 |
0 |
-
|
通算 |
UEFA
|
15 |
2 |
2 |
1
|
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 32試合 9得点(1972-1987)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ |
その他 | 期間通算 |
年 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1970 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0
|
1971 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1972 |
6 |
1 |
6 |
0 |
12 |
1
|
1973 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1974 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1975 |
5 |
0 |
0 |
0 |
5 |
0
|
1976 |
8 |
7 |
3 |
0 |
11 |
7
|
1977 |
4 |
0 |
25 |
8 |
29 |
8
|
1978 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1979 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1980 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1981 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1982 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1983 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1984 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1985 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
1986 |
4 |
0 |
1 |
0 |
5 |
0
|
1987 |
5 |
1 |
10 |
2 |
15 |
3
|
1988 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0
|
通算
|
32 |
9 |
47 |
10 |
79 |
19
|
出場
得点数
# |
年月日 |
開催地 |
対戦国 |
スコア |
結果 |
試合概要
|
1 |
1976年8月8日 |
マレーシア、クアラルンプール |
インド |
5-1 |
勝利 |
ムルデカ大会
|
2
|
3
|
4 |
1976年8月10日 |
マレーシア、クアラルンプール |
インドネシア |
6-0 |
勝利 |
ムルデカ大会
|
5
|
6
|
7 |
1976年8月13日 |
マレーシア、クアラルンプール |
ビルマ |
2-2 |
引分 |
ムルデカ大会
|
8 |
1976年8月20日 |
マレーシア、クアラルンプール |
マレーシア |
2-2 |
引分 |
ムルデカ大会
|
9 |
1987年9月15日 |
日本、東京 |
ネパール |
5-0 |
勝利 |
ソウル五輪予選
|
監督成績
- 2017年は第38節のみ。順位は第38節終了時点。
脚注
関連項目
外部リンク
|
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特別掲額 | |
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投票 | |
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委員会推薦 (特別選考) | |
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委員会推薦 (チーム) | |
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委員会推薦 (協会会長) | |
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